映画・テレビ

2011年7月26日 (火)

トルコ映画 『蜂蜜』

バケツに張った水に満月がくっきりと映っている。主人公の6歳の少年ユフスが水の中にそっと手を差し入れて満月をすくい取ろうとする。水が揺れて、月が粉々に砕けちる。揺れが静まって光がふたたび月のかたちを作るまで、じーっと待つユフス。また手を差し入れる。光がまた散乱する。ユスフは顔をバケツの水の中にそっと浸す。異界と一つになろうとするかのように。

トルコの黒海沿岸の山岳地方。高い山と深い森の連なり。霧が谷を蔽っている。わずかに開けた土地には色とりどりの野の花。さまざまな鳥の声。雨の音。風の音。せせらぎの音。乾燥地を予想していたトルコに、こんな湿潤で濃密な自然が息づいていることに驚いた。

養蜂家の父、茶畑で働く母。寡黙な両親は、吃音のあるユフスを気遣っている。養蜂の作業を見たり手伝ったりするうちに、自然という回路を通して父親の内面深くに入りこんでゆくユフス。好きな父にだけは、ユフスの口からなめらかに言葉が出た。

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ある日、採蜜の作業に出た父はそのまま消息を絶った。父の姿を求めて作業小屋に入ったユフスは、父が自分のために長い時間をかけて作ってくれていた木製の帆船模型が、棚の上に出来上がって置かれているのを見出した。

静かな映画だ。ディテールが濃やかで美しい。父の事故死の知らせが届いた日、ユフスは薄闇に閉ざされた深い森の中をさまい、巨樹の根方のくぼみに根に抱かれるように身を横たえた。

2011年3月 8日 (火)

デコちゃん

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高校時代クラスにM君というどこかのお寺の息子がいた。ずんぐりして、丸刈りで、度の強い眼鏡をかけた陽気なおしゃべりで、ときどき授業をサボっていなくなった。大の映画好きだったから、たぶん映画を見に行っていたのだと思う。口を開くと大人びた口調で「映画?そりゃデコちゃんでしょう、デコちゃんに決まっている」と言っていた。そのころ、わたしはまだデコちゃんを名前でしか知らなかった。

昨年末にデコちゃんこと高峰秀子が亡くなったとき、真っ先にM君のことを思い出した。デコちゃんなしにM君の青春はなかったろう。そんなM君は全国にいっぱいいたにちがいない。

『カルメン故郷に帰る』、『浮雲』、『二十四の眸』、『女が階段を上るとき』、『張り込み』など、その後デコちゃんの映画をたくさん見て、わたしもデコちゃんが大好きになった。「勝気」「一本気」というのがデコちゃんの持ち味とされているが、言うのなら「ひたむき」と言うべきだろう。自分の「弱さ」を知るがゆえの「哀しみを秘めた強さ」が、彼女の比類ない魅力だ。

「国民的大女優」と言うらしいが、デコちゃんなら「どうだっていいわよ、『国民的』など。好きにすれば」と鼻にかかったアンニュイな声で啖呵を切ったことだろう。

2010年11月12日 (金)

ジェリー

ガス・ヴァン・サント監督の映画『ジェリー(Gerry)』(2002)を観た。出演はマット・デイモンとケイシー・アフレックの二人だけ。

冒頭、ハイウエイを一台の車が音もなく疾走して行く。潅木の茂みがところどころに散在する荒野の夕映えの風景。その果てしない広がりの中をゆるやかにカーヴしながらどこまでも続くハイウエイ。等距離を保ちながら、カメラが疾走する車を追い続ける。やがて、アルヴォ・ペルトの単調で静謐な無窮動の旋律(「鏡の中の鏡」)が遠くからのように響いてくる。

画面を見ているうちに、いつしか恍惚として「向こう側」に行こうとしている自分に気づいた。

長い時間のあとようやくカメラが車の前に回り込んだ。中にいる二人の若者の顔は、背後から差し込んでくる赤金色の夕陽のためによく見えない。二人はことばを交わさない。二人だけの世界。ふと、「死の道行」ということばが頭をよぎった。

映画は、アメリカ中西部らしき荒野(砂漠)をさすらった二人の若者の物語だ。「物語」というのも憚られるくらい、筋らしい筋もない。ことば少なに、ひたすら歩き続け、ついに力尽きる。どこまでが現実で、どこからが幻想なのか、定かではない。長回しのカメラが歩き続ける二人の若者の横顔を追う。砂を踏みしめる軋み音と荒い息遣い。

なぜ、何のために、二人がこんな荒野に迷い込み、さすらっているのか。説明はいっさい省かれている。しかし二人の間に吹き通っているやさしく柔らかな風は、観ている者の膚に触れてくるようだ。

無人の荒野の時々刻々に変化する風景は、見事なカメラワークで細部まで鮮明に捉えられている。硬質で、透明で、息を呑むほどに美しい風景。これは、二つの魂の間に広がる「愛と死」の風景だったのだ。

二人はお互いを「ジェリー」と呼び合う。彼らが「ジェリる」と言うとき、それは「しくじる」「どじる」という意味らしい。しかし「ジェリる」は、愛の表現のように響く。

マット・デイモンがいい。節くれだった木から不意に匂い立つような美しい花がこぼれるように咲く、そんな趣きがある。

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2010年2月18日 (木)

あわせ鏡 ― 『イヴの総て』

中島みゆきの歌を夢中になって聴いていたのは1980年代の前半だっただろうか。レコードLP盤を十数枚も買い込んで繰り返し聴いた。そのLP 盤も今は眺めるだけのものになってしまった。その中に「あわせ鏡」という歌があって、

 グラスの中に自分の背中がふいに見える夜は / あわせ鏡を両手で砕く / 夢が血を流す

という歌詞が見える。「グラスの中に自分の背中がふいに見える」とは、中島みゆきならではの秀逸なフレーズだ。背中は「老い」をもっともよく映す。

最近,、ジョセフ・マンキーヴィッツ監督の映画『イヴの総て』(1950)を見たが、その最後の場面に合わせ鏡が出てきて、ふと中島みゆきの歌を思い出した。

『イヴの総て』は、栄光の頂点に立つブロードウェー女優のマーゴ(ベティ・デイヴィス)が崇拝者として近づいてきた若いイヴ(アン・バクスター)に目をかけ、そのあげくイヴに栄光の座を奪われる物語である。すさまじくも仮借ない「下克上」が、一見可憐な女性によって演じられているだけに、恐い。

映画のエンディングで、そのイヴに憧れて彼女の部屋を訪れた<さらに若い女性>がイヴの目を盗んで、彼女のドレスをはおり合わせ鏡の間に立つ。そして、鏡に向かってにっこり微笑みかける。

若さの微笑と老いの背中。無数のイヴ(とアダム)のはてしない連鎖。ため息をつきながら映画を見た。

イヴの総て~オール・アバウト・イヴ・コレクション

2009年11月18日 (水)

レッドフォード 『モンタナの風に吹かれて』

ロバート・レッドフォードという俳優は飛び切りの美男子なのに、映画館に足を運ぶまでの気を起こさせなかった。最初に見た『追憶』が悪かったのかも知れない。『追憶』は、上映途中で映画館を出てしまった稀な映画の一本である。

その後 『明日に向かって撃て』 『愛と哀しみの果て』 『アンフィニッシュド・ライフ』などビデオで見たが、最初の印象は基本的にはあまり変わらなかった。なぜか。

長谷川一夫は「目千両」と称せられて目線の「色っぽさ」は無類だったが、同じ二枚目でもレッドフォードにはその「色っぽさ」がない。

「色っぽさ」「色気」とは「交差の美」だと藤本義一氏が言っていた。至言である。うつむいて上目づかいに見る、顔をそむけて横目づかいに見る、逃げる姿勢で上体だけが振り返る。要するに、心と体が裏腹なのだ。レッドフォードには「交差の美」が欠けている。彼のまなざしは、いつも真っ直ぐなのだ。

はげしく沸騰する情念(エロスとタナトス=愛と死の情念)をきわどいところで身内(心と体の内側)に押し込めている危うさ。「狂気」を潜めた「静謐」。クリント・イーストウッドにはそれがある。

ところで最近、レッドフォード監督・主演の『モンタナの風に吹かれて』をDVDで見た。しみじみいい映画だと思った。乗馬とトラックの衝突事故で片足と友人を失った少女。その事故で化物じみた凶暴な暴れ馬に化した愛馬。伝説的なカウボーイに愛馬の再生を託くそうとニューヨークからモンタナまで旅する母娘。そして、モンタナの空と雲が美しい。暴れ馬の前に立ちはだかって、狂気をはらんだ馬の目をひたと見つめるカウボーイの眼差しの優しさと強さ。レッドフォードの<交差していない>人柄を素直に肯定したくなった。多分、私の年齢(とし)のせいだろう。

モンタナの風に吹かれたいと思った。

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2009年9月19日 (土)

ディズニー・アニメ 『バンビ』

「ディズニーの『バンビ』が好き」とつぶやくと、周囲に微苦笑がさざなみ立つのがわかる。それでも、いっこう構わない。好きなものは好きなのだから。

生まれたばかりの子鹿が森の仲間の祝福と友情に見守られながら、母鹿の死、恋の鞘当て、父鹿との出会いなどのさまざまな経験と試練を経ながら<森の王>へと育ってゆく過程はいわゆる「ビルドゥングス・ロマーン(教養小説)」仕立てで、そこにアメリカ西部劇の味わいをちょっぴり加味したといったところか?しかし、『バンビ』にアメリカの覇権主義を見て取る人もあるらしいが、それはいかがなものだろう?

『バンビ』は、自然の生命が刻む「時間」をリアルに、かつシンボリックに描き出した作品だ。その「時間」が私たちの「内なる時間」と響きあう。

そこでは、四季折々の森の情景がこまやかに愛情を込めて描き分けられている。森の空気がコローの絵のように膚に感じられ、木々の匂いに浸されるようだ。靄の立ち込める森の夜明け、谷あいを流れるせせらぎのさざめき、木々の葉を揺らして吹き通う風、木の葉を滴り落ちる露のきらめき、風に舞い降りしきる落葉、夕焼けの空をバックにした枯木立の威厳に満ちたシルエット。

とりわけ私がいたく感心するのは、バンビの身体が年齢とともに逞しさとしなやかさを増し、親鹿の威風堂々たる体型へと変化してゆくさまがじつに丹念に描かれているところである

私が小学校の映画鑑賞会で初めて『バンビ』を観たのは5年生のとき(1955年)。学校から映画館のある豊中駅前まで箕面街道の2キロ弱の道のりを、同学年の生徒全員が整列行進して観に行った。『バンビ』の感動は大きく、今もその幸せな呪縛が続いている。

ちなみに、結婚して夫婦で最初に観に行った映画が『バンビ』だった。そして最近『バンビ』のDVDを買って、また観た。

2009年9月16日 (水)

ぜんぶ フィデルのせい

『Z』『ミッシング』の名匠コスタ・ガブラス監督の娘ジュリー・ガブラス監督の『ぜんぶ フィデルのせい』(2006年)を観た。フィデルはキューバのフィデル・カストロのこと。60年代の末から70年代の初めにかけて、ベトナム反戦運動、文化大革命、パリ5月革命、チリの人民連合の勝利と、若者の掲げる「異議申し立て」の火が全世界をおおった。両親は世界変革の情熱に目覚めて、左翼運動にのめりこんでいく。主人公の少女マリア(十歳くらい)はのんびり屋の弟フランソワとなに不自由ない生活を送っていたが、怪しげな鬚面たちが出入りし始めた家庭のきしみが許せない。(みんな好い人たちなんだが。)

マリアは負けていない。「キョウサンシュギって何よ?」「レンタイって何よ?」「チュウゼツって何よ?」「貧しい人たちのためというなら電灯もシャワーも切ってやる。」ハリセンボンみたいな仏頂面で果敢に「異議申し立て」を繰り返すマリア。「異議申し立て」る人に「異議申し立て」るという構図が、重くなりがちな内容にアイロニーの軽やかさを与えている。

「サンチアゴの雨」として知られるアジェンデ大統領の死と軍事独裁の成立。一つの時代の終わりを象徴する出来事だった。そのニュースを聞きながら涙するパパ。パパの手をそっとポケットから抜き出して握るマリア。そのときマリアは人生の階段を一段登ったのだ。

マリアを演じたニナ・ケルヴェルが、とりわけすばらしかった。

ジュリー・ガヴラス監督、ニナ・ケルヴェル

2009年8月26日 (水)

『地獄の黙示録』と『闇の奥』

フランシス・フォード・コッポラ監督の『地獄の黙示録』(1979)を(何度目になるだろうか)また見た。ベトナム戦争<を>圧倒的な迫力で描いた作品であるというまっとうな批評は、<にもかかわらず>ほとんど的外れかもしれないという気がした。史実としての「ベトナム戦争」が描かれているのではない。そこにあるのは、戦争というかたちを取った「人間の狂気」であり、この映画の製作に関わったスタッフの狂気に近い<映画的振舞い>である。

コッポラの『ゴッドファーザー』3部作もしかり。デーモン(悪霊)に取り憑かれることなしに、こんな映画を作ることは出来ない。しかしデーモンなくして、どこに映画があるのかと思わないわけでもない。

『地獄の黙示録』はジョセフ・コンラッド(1857-1924)の『闇の奥( Heart ob Darkness)』を原作としている。コンラッドもまたデーモンに取り憑かれた人間を描きつづけた作家だ。象牙商人としてコンゴの奥地に滞在するクルツを訪ねることになった船乗りマーロウは、コンゴ河をはるかに遡った密林の奥地で、死と恐怖によって原住民を支配しているクルツを見た。すでに病重篤なクルツは、マーロウの腕の中で、「地獄だ。地獄だ」とつぶやきながら息絶える。

「闇の奥」とは、コンゴ原生林の奥深い闇であると同時に、人間の心の闇、人間を駆り立てている文明の闇であろう。『地獄の黙示録』のコッポラを突き動かしているのもまた、同じ人間の心の闇なのである。

 地獄の黙示録/Apocalypse Now (Redux) - Soundtrack

2009年8月12日 (水)

『カビリアの夜』

フェリーニの『カビリアの夜』(1957)を観た。ローマの街頭に立つ娼婦カビリア(ジュリエッタ・マシーナ)の無垢な魂の遍歴を描いていて、心に深く沁み入る作品だった。カビリアの「無垢」は、「愚しさゆえの」無垢では断じてない。「無垢」であることを「愚かしさ」としてしか受け止められない世界が一方にあり、他方にはその惨めな世界を力いっぱい抱きしめるカビリアがいる。二枚目男優の豪邸に連れ込まれたカビリアは、歩くことを覚えたばかりの幼児のような不器用さで長い階段を上ってゆく。演じるジュリエッタ・マシーナは、生きることに不器用なカビリアををいじらしくも晴れやかに演じきって、その魂の水底に湛えられた愛と叡智の光をほのかに浮かび上がらせた。男に<またしても(2度目!)>身ぐるみ剥(は)がれたカビリアは、雨のローマの街頭に再び立った。マスカラが雨に溶け、まなじりに黒い大粒の涙が垂れている。しかし、カビリアはかすかに微笑んでいる。

 「水底に うつそみの面わ 沈透(しず)き見ゆ 来ぬ世もわれの寂しくあらぬ」(釈迢空)

カビリアの夜(DVD)

2009年8月 2日 (日)

魂の川

ブラジルの監督ウォルター・サレスの『ビハインド・ザ・サン』はブラジルの荒涼たる砂漠を舞台に、土地の所有をめぐり幾世代にもわたって死闘を続けるふたつの家族の(ほとんど神話的といっていい)悲劇を描いている。そこでは、土地と名誉は死を以て護られなければならない。それが掟であり運命なのだ。通りがかった旅廻りのサーカス芸人の男と少女が、<坊や>(10歳くらいだが彼には名がない。ただ「坊や」とだけ呼ばれている)に訊く。「坊や、どこに住んでいるの?」「魂の川だよ。」「川なんかないじゃない。」「水が干上がったから、今は魂しかいないんだよ。」男はパクー(川魚)という名をくれた。少女は人魚の絵本をくれた。文字の読めないパクーは、美しい絵を見ながら人魚の物語を紡(つむ)ぎつづけるのだった。

 Movie/ビハインド ザ サン

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