日記・コラム・つぶやき

2013年1月25日 (金)

ベッドの中の宇宙、または水琴窟

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水琴窟は日本庭園の仕掛けの一つで、手水鉢の水が地中に埋められた甕の中に一滴ずつゆっくりと滴り落ちるとき、水滴が水面に落下する瞬間に、その水音が甕の空洞に反響してえもいえぬ妙なる響きを奏でる。一つの音が響きやむと、そこに生じた真空に次の水滴が引き寄せられるように落下して次の音が響く。二つの音は絶妙の沈黙を挟んで、連続する。

ところで、本部で会議のあるときたいてい幕張駅近くの中級ホテルで宿泊するが、先日寝入る前にベッドのシーツに耳をつけていると、ベッドの内部から水琴窟のような音が聞こえた。「ルリーン」というような柔らかな金属音が波動となって広がり、一つの音が響きやむくと、しばらくしてベッドの内側の別の場所から、まるで「こだま」が帰ってくるような音の波動が寄せてきた。

不思議な感触に襲われた。宇宙空間で星が墜ちるような音(まだ聞いたことはないが、流れ星が落ちるとき耳を澄ますと聞こえてきそうなそんな音)。一つの星の墜落が何億光年か離れた別の星の墜落を誘い出しているような感じだった。不規則に連続する音を聞きながらやがて寝入ってしまった。翌朝、何だったのだろうと考えていて、やがてあれはベッドのクッション・バネがきしむ音だったのだと気がついた。ベッドの中の宇宙。壺中の天。

ふとドストイェフスキーのことばを思い出した。「一切万物は大海のようなものだ。すべては流れ入り、互いに触れ合うのだ。どこか一箇所で何かを動かしたら、それは必ず世界の別の一端で反響するのだ。」

2013年1月22日 (火)

ロウバイやらハボタンやら

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またたく間に松の内も過ぎて、慌ただしい年度末の行事が目白押しの季節になった。そのうえ「ノロだ、インフルエンザだ」とウイルスが跳梁する時期と重なっているから厄介だ。

私は年末くらいから鼻の具合が悪い。鼻腔がやたらと乾燥して、くしゃみが止まらない。空気が乾燥している上に、花粉やら黄砂が舞い始めているらしい。ミクロの敵と渡り合いながら、頭(ず)を低くして春を待つ心境である。

そんな願いを込めて、人毎に「もうロウバイが咲いている」とか「日本水仙が匂っていた」とか「ミモザの枝が明るくなってきた」とか触れまわっている。そんなふうに言うことで、心のうちで春の訪れを既成事実化しようとしている。

しかし、嘘を言うわけにはいかない。そこでこの季節、ロウバイの芳香を求めてご近所を彷徨う。小学校同級生の旧家の庭にロウバイの大きな木があって、高い築地塀(つじべい)越しにロウバイを鑑賞するのが、この頃年中行事の一つだ。今年はしロウバイの花付きが少し悪いようだ。それでも、青空に映えるロウバイの黄色は、やはり嬉しい。

そのご近所で葉ボタンの寄せ植えを見つけた。門松を飾った葉ボタンがすっかり大きくなっている。暮れに迎春用のハボタンが店頭に並んでいるときには、贈答品の熨斗(のし)みたいに疎んじているが、役目を終えて「素」に戻ったハボタン、じつにみごとな造形美だ。縮緬(ちりめん)状の葉の重なりが微妙な色彩のグラデーションを演出して、自然の造形の奥深さを感じさせる。

お定まりの(寓意としての)役割から解放されると、生命はその本来の輝きを取り戻すものだ。

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2012年12月30日 (日)

ミッケー!

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「ミッケー!」してください。千里中央の長谷池のほとり。柿の木にはまだたくさんの赤い実が残っています。人の気配を感じて、一時退避していたメジロたちがしばらくすると一羽、2羽と戻ってきて、そのうち枝から枝へとたくさんのメジロたちがランダムにクロス。メジロは柿が大好き。柿の実に顔を突っ込んで食べています。メジロさん、どこにいるかわかりますか。まだ二羽だけですが。(画面をクリックすると拡大して見られます。)

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2012年11月13日 (火)

チョウの見ている色の世界

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ツマグロヒョウモン(褄黒豹紋)は、このブログではもうおなじみの蝶だ。ツマグロヒョウモンはキバナコスモス(黄花秋桜と知人が書いてきた)を好むという私の仮説に変わりはないが、彼女(?)、今日はピンクのコスモスに止まっていた。

カメラに収めて、PCのモニター画面で見ると、向こう側の赤いコスモスが子どもの絵に出てくる太陽のように映っていて、思わず「ほーっ!」。私(人間)の目には、ふつうに赤いコスモスとして花弁も萼も雄蕊・雌蕊も見えている(つもり)なのに、カメラの目にはこんなふうに見えているのだということにあらためて驚いた。

それなら、ツマグロヒョウモンの視覚にはコスモスの色とりどりの花はどんなふうに映っているのかと思った。アゲハチョウの視角についてのWebの記事(蟻川謙太郎総合学術大学院教授)を読むと、蝶の視力は人間より劣っていて「0,04」くらい。まあ、私の裸眼と同じくらいだ。ところが、人間の三原色に対して四原色、つまり四つの色を見分ける目を持っているそうだ。チョウは短い命の時間に、人間より多彩な色の世界を生きていることがわかって嬉しい。

下の写真は、暮れなずむ夕方のコスモス畑。

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2012年10月30日 (火)

優しい目

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カルガモの目は優しい。その優しい目には何が映っているのか。

今日、散髪の帰りに自宅マンションのそばの梨谷池の脇を通りかかると、カルガモのつがいが岸の茂みの蔭にぽっかりと浮かんでゆらゆら揺れていた。何を見るともない優しいまなざし。ときおり頭を180度後に廻らせて、顔を背中に埋めてじっとしている。人が近づいても動かない。まるで心地よげにまどろんでいるみたいだ。

その姿に見入ってしまって、しばし佇んでいた。秋の午後の明るい陽ざしが背中に暖かい。その陽射しがカルガモの顔を照らしていた。

2012年10月22日 (月)

彼岸花とコサギ

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ごんしゃん ごんしゃん 何処へいく / 赤いお墓の曼珠沙華 / 曼珠沙華 /  けふも手折りに来たわいな (北原白秋『思い出』)(曼珠沙華はヒガンバナとルビ)

「ごんしゃん」とは九州柳川の方言で良家のお嬢さん、ヒガンバナの毒で堕胎したそうな。死児の齢を数えて、一本、二本、三本・・・・と七本まで手折って帰る。センターの学生Mさんから教わった。

もうヒガンバナの季節は過ぎたが、この話は書き留めておきたいと思った。千里川ぞいを歩いていると、ヒガンバナ越しにコサギの姿が見えた。ごんしゃんのことを思い出した。

http://www.youtube.com/watch?v=iPTlZpceSoU&feature=related

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2012年10月14日 (日)

やんちゃでも小鳥はやっぱり元気でいてほしい

ある日の夕方、散歩から戻ってきたら、マンションの入口で犬の散歩から戻ってこられた野鳥仲間の奥様に出会った。「小鳥が道端で死んでいたんですよ。電柱に衝突したんでしょうか?」と悲しげ。「小鳥がまさか電柱にぶつかったりしないでしょう。」

「このあたりであまり見かけない小鳥なんですよ。枯草をかけてきたんですが、ちゃんと埋めてあげようと思っています。その前に見てくれません」と小鳥のお弔いに誘われた。

奥様の手のひらの上のちっちゃな野鳥はうっすらと目を開いたまま、きれいな姿で死んでいた。緑がかった体色はメジロに似ていたが、目のまわりの白い輪がない。スズメでもない。

南へ渡って行く途中、群れからはぐれた迷い鳥で、行き暮れて衰弱死したのだろうか。ウグイスかムシクイか、枝から枝へとすばやく飛び移る姿で見たかった。

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そんな思いが残ったままの翌朝、天王寺キャンパスの木立にヒヨドリを見つけた。ヒヨドリは精悍で、鳴き声も大きく、動きも活発。小型鳥を威圧するような振る舞いをしたり、ヴェランダの大切な果樹を狙ったりするので、小憎らしい。しかし、こうやって都会のビルの谷間の乏しい緑の中に見つけると、「精いっぱい元気でいろよ」と励ましたくなった。

2012年9月19日 (水)

葛の花

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晩夏から初秋にかけて、どこにでもみられるありふれた葛の花。その花をじっくりと観察することはあまりない。しかしよく見るとなかなか味わい深い花だ。

花色のヴァリエーションは多様だそうだが、基本は紫。そこに、赤・青・ピンク・白などの色が混じる。写真は千里川の岸の雑木にからみついた葛の花房。

葛の花 踏みしだかれて色あたらし。この山道を行きしひとあり (釈迢空)

中学校か高校か、国語の教科書で誰もが一度は習ったこの歌。釈迢空(折口信夫)が壱岐(いき)に旅したときの作とか。歌集『海やまのあいだ』(1925)に収められている。同じ歌集に「人も 馬も 道ゆきつかれ死ににけり 旅寝かさなるほどのかそけさ」の歌もある。

この歌、いろいろと解釈の別れる歌のようだ。実景を歌ったものかどうか?葛の花を踏みしだいて進まねばならないとすれば、深い山の踏み分け道かとも思うが、私の解釈はこうだ。

山道の両側の木の梢に絡みついた葛、その蔓(つた)から落ちた赤紫の花が地面に散り敷いている。落ちた花は踏まれて紫の花色をあざやかに滲(にじ)ませている。それを見ると、この道を通り過ぎて行ったものの<存在と非在>がいっそう心に染み入るように感じられた。あるいはこの道は、ひょっとすると遥かな異域へと通っていそうな、旅ごころの心細さ。

葛は万葉の昔から人々の暮らしと深く結びついた植物だった。葛の根は葛粉として食用にもなり、生薬の原料として重用されてきた。茎から採られた繊維は葛布(くずふ)として利用され、その長く勁(つよ)い蔓は編んで生活用品として役立てられた。そう思って読むと、迢空の歌の背後にも無数の名もなき庶民の暮らし、その生と死とが水底に<沈透(しず)き見え>てくるようだ。

とはいえ他方では、葛の繁殖力は凄まじく、今は世界の侵略的外来種ワースト100の一つだそうだ。

葛が人々の生活を扶(たす)ける必要不可欠な有用植物であったころ、人々はその根をさかんに掘り起こし、茎や蔓をせっせと刈り取っていたから、葛の繁殖は適正に抑えられていたらしい。自然と人との関わりを教えて、示唆に富んでいるように思われる。

ちなみに、葛は日本の在来種で、英語でもドイツ語でも"Kudzu"。日本人と葛のつながりの濃さをうかがわせる。

2012年8月19日 (日)

根付の文化 ― 逝きし世の面影

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以前、渡辺京二さんの『逝きし世の面影』をここで紹介したことがあった。幕末・明治期の庶民の生活を、当時来日した西洋人の目を通して、生き生きと再現した書で、今日の日本では失われた「豊かな貧しさ」を思い出させてくれた。

先日訪れた長浜の骨董店で、見つけた根付。私には別に、根付蒐集の趣味があるわけではない。たくさんの根付が無造作に放り込まれたガラスケースの中の、この根付にふと目がとまった。高さ5センチばかりの黄楊(つげ)の彫りもの。

ちょんまげの男が子どもを桶(籠?)に入れて運んでいる。男の足元のアヒルが桶の中の子どもにちょっかいを出している。それともアヒルは、子どもが差し出す餌に食いつこうとしているのだろうか?親子か、爺と孫か。二人を取り囲むのどかな風景までが、目に浮かんでくる。

江戸時代にはよく見かけた光景だったのだろうか。それとも、この意匠には何か寓意が隠されているのだろうか。

それにしても、爺がこの根付を掌でさすりながら、孫のことを思い出して煙草を一服・・・などと想像してみると、ほのぼのしてくる。逝きし世の面影だ。

ところで、長浜にはフィギュアの海洋堂ミュージアムがある。フィギュアは、日本独自の世界でも稀なユニークな文化だが、ひょっとするとフィギュアの源流は根付かもしれないと思った。

2012年7月13日 (金)

ラズべりー

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地下鉄天王寺駅からセンターまでの私の通勤経路は、まるでオランダの版画家エッシャーの「不可能な遠近法」的空間の中にあるようだ。

地下鉄の駅を降りると、エレベーターでビルの地上階へ。ビルのドアを出て、まずJR関西線、環状線のホームをまたぐ跨線橋を渡る。橋を渡りきったところでJR阪和線に突き当たる。

その線路ぞいに坂道を下って、今度は当の阪和線高架下のガードをくぐる。ガードを抜けて右に折れ、その高架線路ぞいに10メートルほど進むと、通勤路はJR各線の上を走っている道路(天王寺バイパス)の下をくぐる。その高架下にはフェンスを巡らした公園がある。(書きながら、「こんな空間構成、わかるはずがない」と呟いている。)

その空間には、かつてブルーテントがいくつもあったらしいが撤収され、いまは近隣住民の管理する「立ち入り禁止公園」(ほとんど形容矛盾!)になっていて、張り巡らされた金網フェンスにラズベリーがからまって、いまその実が赤から黒へと熟し始めている。

まことにリアリズム=シュールリアリズム的な空間の、極微の「牧歌」である。

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