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2014年1月

2014年1月29日 (水)

『さよなら アドルフ』(ローレ)を観て

サスキア・ローゼンダール。1993年生まれのドイツ新進女優。『さよなら アドルフ』(2013)で主役のローレを演じている。香り立つ新緑の森のようなみずみずしさ、真直ぐな深い視線、知性と感性の揺るぎないバランス。すばらしい女優さんになるにちがいないと思った。

昨日、勤めの休みを利用してガーデン・シネマで、学習センターのNさんに教えられたドイツ語の映画『さよなら アドルフ』を観たのだった。題名を聞いたときは、またお定まりの反ナチ・ヒューマニズム映画かとちょっと腰が引けた。「ドイツの風景がすごくきれいでした」のひと言に背中を押された。

1945年のナチ崩壊。ナチの高官だった父と母は連合軍に連行され、14歳のローラを頭に幼い妹、双子の弟、乳飲み子の5人の兄弟姉妹は打ち捨てられるように置き去りにされた。母親の残したことばに従って、ローラは南ドイツのシュヴァルツヴァルトから900キロ離れたハンブルクのさらに北、母方の祖母の家まで幼い妹、弟を連れて旅してゆく。

酸鼻をきわめた終戦の混乱・荒廃の最中、どんな戦争難民にも共通する運命ではあろうが、ナチ高官の遺児にとっては、心身ともに存在の根底を打ち砕かれたうえ、彼らを見る人々の視線は容赦なく苛酷だった。

春に家を出て凍てつく祖母の家にたどり着くまでの苦難の詳細は語るまい。双子の弟の一人は射殺された。しかし、泥まみれ血まみれになりながら彼らが通過してゆくドイツの自然と季節は、戦争の惨禍にもかかわらずみずみずしい。木の葉のそよぎ、葉末にたまった水滴に宿る光、爆弾によってなぎ倒された木々を包む霧、木立の向こうに広がる夕映え。どれもがはっと息を飲むように美しい。

そして何よりも、苦難の道行を真正面から受け止め泥だらけ傷だらけになりながら、しかし少しずつ人間として成熟してゆくローラの表情と姿が、自然の移り変わりとかぶさりながら静かに確かに伝わって来る。

ようやくたどり着いた祖母の食卓で、いきなり手を伸ばしてパンにかぶりつく弟の躾のなさを叱責する祖母に向かって、ローレは「わたしを見て」とばかりに自らも無言のままパンをわしづかみにして口に押し込み、旅の途上お守りのように大切にしてきた母親のくれた小さな陶製の鹿を床にたたきつけ、靴で踏みつけて粉々にした。それは、新しい人生への出発の「ことばでは語り得ぬ」決意だった。

2014年1月26日 (日)

コサギはなぜ一本足で立つのか?

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このブログも最近は「野鳥」さんたちにばかりご登場願って、恐縮。ギャラもないのに。

あたりは冬枯れて、「色」の乏しいこの季節、枯れ木立を見てもそこに野鳥のシルエットを捜しているこの頃です。

コサギが一本足で立っていました。水のなかでは2本足を交互に動かして、しずしずと歩くのに、岸に上がると一本足で立つ。一本足の佇まいには、生命の確信がみなぎっています。

ずいぶん昔、『鶴はなぜ一本足で眠るのか』という表題の本を買って読んだことを思い出した。表紙の丹頂ヅルのイラストがすばらしかった。しかし、内容はもうすっかり忘れてしまった。残念。あの本、書棚のどっか奥の方に眠っているはずだが、探すのは大変。

コサギの真っ黒な脚部はまるで鋼(はがね)でできているみたいに太くがっしりしていて、広げた黄色の趾(あし)指は華奢な体に似つかわしくないくらいに大きい。黒と黄色のコントラスト。多少の風に揺らぎもしない安定感が感じられる。もう一本の足は腹部の羽毛の下に納まっているはず。完全に隠れて見えないので、その立ち姿は根を張った「木」か、大きな「花」のように見える。

コサギの胴体は、真っ白な暖かそうな羽毛に覆われている。とすれば、体熱が奪われるのはきっとむき出しの足や嘴から。だから、露出する体表面(足や嘴)をできるだけ隠して、丸くなる。冷たい地面との接触面を少なくしようとして立つ。するとその恰好が木に似てくる。そして、半ば立ったままの姿勢の方が次の行動への迅速な対応を可能にする。これは「理」が勝ちすぎた説明かもしれない。

コサギにだって自分を美しく見せたいという「見栄」があるのでは?というか、外なる世界との繋がりの意識かな?大自然の中の自分の役割を美しく(調和的に)果たしたいという心?

生きものには自分を大きく強く見せようとする傾向と自分を目立たなく隠れていようという相反する二つの生命衝動があるようだ。コサギなら、大きなたくましい趾指、鉄のような脚部、その黄色と黒の強烈なコントラスト。それらは外敵に対する警告色としての役割を果たすだろう。(保護色や擬態のように)一本の木か花に似せて自然の中にさりげなく身を隠すことで、外界との調和を保つ。

野鳥たちは、足や嘴の形態や構造や色や意匠も含めて、大自然にうまく適合した姿や振舞いを身につけているのだ。

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2014年1月25日 (土)

モズの雌雄

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雄のモズはどうしてあんなに猛々しいのかと、これまでいささか毛嫌いしてきた。高い梢のてっぺんに止まって、いつもあたり睥睨(へいげい)している。自分の「縄張り」にほかの鳥が立ち入るのを断固許さないという気迫がその顔つきに出ているし、目元の黒い隈取(くまどり)(過眼線)はまるで歌舞伎の悪役だと思ってきた。

そんな雄モズのクローズアップを撮った。するとこんなあどけない顔が写っていて、嬉しくなった。何と無心な瞳だろう。私は自分の先入見を詫びたい気がした。

モズの採餌行動は「はやにえ(早贄)」としてよく知られている。捕らえた虫や小動物をとりあえず木の棘や枝に串刺しにして、時間を置いて食べる(食べないこともある)。そんな「はやにえ」の写真など見ると、「残酷な」と思ってしまう。しかしどんな生き物も、自然(生態系)の大きな循環の中で、それぞれ自分に与えられた条件を最大限に活かすことでしか、生きる道はない。モズはいかにも小さい体で、凛として、しかし無心に自然のリズムを生きているのだ。

雌モズはいつも控え目で灌木の茂みに身を潜めていることが多い。モズ社会は男性優位かと考えていたが、これも私の悪しきアントロポモルフィズム(擬人的世界観)だ。雄の隈を消したら、雌と同じ優しい顔になりそうだ。

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2014年1月23日 (木)

白梅にメジロ

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千葉幕張に出張すると、幕張公園でセキレイやオナガに出会えるのが楽しみだ。昨日1月22日、幕張公園の梅林では白梅紅梅がほころび始めていた。大阪の梅はまだ蕾が固い。今年は東京の方が少し暖か?

その幕張の白梅の木にメジロが2羽、近づく春を喜んでいた。文字通りに、ご同慶の至りです。

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タヒバリ(ビンズイ)

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近所の草地で見た珍しい、しかしとても地味なこの鳥。地上を動き回って一羽で(つまり群れずに)餌を探していた。人を恐れるふうもなかったが、なにしろ距離があったのと、木立の下で光量が足りず、ピントが甘い写真になりました。

アオジかなマヒワかなと図鑑をあちこち覗いて、結論は「タヒバリ(ビンズイ)」。自宅の近くではそんなによく見る鳥ではありませんが、地味なのでひょっとしたらこれまで見逃していたのかも。

写真を撮ったあと、そんなにハイな気分だったわけでもないが、30センチばかりの石積みをリュックをしょったまま気軽にポーンと飛び降りた。「これしき」と思ったのが間違いだった。足が地面についたと思ったら、後から押されたみたいに前につんのめって膝から倒れた。やってしまった、年寄りの冷や水。振り返って石積みを見たら、何と高さ60センチもあった。上から見たら30cm。下から見ると60cm。

ちょっとばかり「ぐねった」腰をさすりさすり、大事に至らずに貴重な教訓「上から見るのと下から見るのとで大違い」を得たことに感謝。「普段のストレッチ運動の成果やな」とやせ我慢。それにしても、やっぱり身軽な鳥になりたい!

「タヒバリ」はヒバリに似てヒバリにあらず。「ミゾヒバリ」「ツチヒバリ」「タスズメ」と地味な古名ばかり。

ならば「つちひばり ひと声うらら 春を呼べ」(路塵)

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2014年1月20日 (月)

コガモ

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コガモ(雄)の体色の美しくも奇抜な配色を見ると、いつも造化(神の造形)の不思議を思わずにいられない。

頭部と頸部の明るい栗色、深緑の眼過線(眉斑)、腹部の白と灰色のアラン模様、極めつけは次列風切(翼鏡)のエメラルドグリーンと、下尾筒(尻尾)のベージュ。こんなに大胆で繊細なカラー・コーディネイトは人知(人間技)を超えている。しかも、エメラルドグリーンの翼鏡は普段は隠れていて、空に舞い上がる一瞬、陽の光にきらめくのである。

雌の体色はいたって地味。となると、雄のカラー・コーディネイトの妙は、雌を誘惑するため、つまり性・生殖・種の保存にだけ関わっているのだろうか。雌はこの体色に惑わされるのだろうか。そんな単純な話であろうはずはない、そんな気がする。

そこには「宇宙的な(あるいは神話的な)」ドラマが秘められていて、コガモの体色の不可思議な美は、何か「原罪」に関わる「受苦」の徴しかも知れない。

コガモは、カモ類にはめずらしく可憐な声で「ピーヨ、ピヨッ」と鳴く。

雀は怒りているにあらずや?

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毎朝、モノレール駅前のシマトネリコの木に群れて、わたしの出勤をにぎやかに見送ってくれるのは雀たちだ。胸の羽毛を大きくふくらませて寒さに立ち向かっている「ふくら雀」たち。かれらはいつも群れているが、一羽一羽はけっこう好き勝ってな方向に顔を向け、好き勝手にさえずって声をそろえたりしない。「群れて和せず」が、どうも彼らの生き方らしい。

その一羽一羽の仕草には愛嬌があって、いかにも可愛い。いつも 群れを作っているから、一羽一羽をまじまじと見つめたこともなかったし、その気もなかった。彼らはあまりにもにひとの暮らしに溶け込んでいるから、かえって観察する機会がなかった。

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しかし、あるとき近づいてその表情をカメラに収めた。そして、よく見てみると、この怒気を含んだ気迫に満ちたこの表情はどうだろう。

伊藤一彦の「動物園に行くたびに思い深まれる 鶴は怒りているにあらずや」の歌を思い出した。ひょっとして「雀は怒りているにあらずや?」もしそうなら、その怒りは恐ろしく深いに違いない、とふとそんな気がしてきた。

2014年1月18日 (土)

素心蝋梅

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素心蝋梅。その馥郁とした香りはピンと張りつめた冬の空気のなかで清々しく、ほのかに甘い。春の訪れをいちばんに告げる匂いだ。本来の蝋梅は、花芯が赤紫。ソシンロウバイは萼片も花弁も黄色。私は、素心蝋梅のさりげなさの方が好みだ。

ロウバイはウメではないらしい。落葉低木で、枝が真直ぐに野放図に伸びる。齢を重ねても、剪定をしても、ウメのように枝ぶりや、幹に風情のある古色が出てこない。これほど、かぐわしい匂いにもかかわらず、視覚に訴えてこないぶん、ウメほど広く愛でられることがない。ロウバイの名所は多くない。

どういうわけか、ロウバイは蓑虫に好まれるらしい。花の時期とミノムシが蓑を作る時期が一致している。それだけ、野生に近いのかもしれない。

じつは10年くらい前に百貨店の園芸コーナーで、大枚6千円をはたいてソシンロウバイの苗木を買ったことがあった。もちろん鉢植え。ベランダで育ってたが、2年ばかりで枯らしてしまった。ロウバイの木は、時代劇の素浪人のように、人に媚びるところがない。可愛げがない。だから、どうしても扱いがぞんざいになり、こまめに目をかけることがない。するとあっさりと枯れてしまう。この淡白さが、じつは春の芳香の秘密かも?

2014年1月 8日 (水)

カワセミとともに春を迎える

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明けましておめでとうございます。お正月は元日も、二日もバード・ウオッチングを楽しみました。と言っても、いつものように千里川(北緑丘)の野鳥エリアに買い物、散策を兼ねて出かけただけですが・・・

三が日はお天気がよかったので、暖かな陽ざしに誘われて、野鳥たちも心地よげ。そんなときはおっとりと構えていて、ひとの気配にも鷹揚。大きな目でカメラを見ながら、「撮りたければ、どうぞ」という感じ。

それにしても日射しに輝くコバルト・ブルーの体色の鮮やかさ。ちなみに、カワセミの目の「白目」のように見えているのは、目元の白斑。目はつぶらな黒い瞳です。

皆さんのお近くにも、カワセミがきっといますよ。川辺の宝石を見つけて下さい。まちがいなく幸せな気持ちになります。

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