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2012年5月

2012年5月25日 (金)

ユリの木の花

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ユリの木は高さ60メートルにもなるそうだ。薄緑の若葉の生い茂る高い梢に、こぶし大のユリの花がぽっかりと浮かぶように咲く。その佇まいはまことに「夢まぼろしのごとし」だ。上の2点の写真は昨年の5月に撮ったもの。

今年もユリの花を見に行かなければと、ここしばらく心落ち着かぬ日々を過ごしてきた。22日の火曜日にやっと、千里中央の<ユリノキの花をまじかに見ることができるスポット>を訪れた。ところが、下の写真でご覧のとおり無残に切り詰められ刈り込まれていて、がっかりした。むろん、これではユリの木も花のつけようがない。「なぜ?どうして?」と怨嗟の声を上げずにはいられなかった。

市の公園課にもの申せば、「切らないと迷惑するする人がいるんですよ」ということ答えが返って来るだろう。交通の妨げだ、街路の清掃がたいへんだ、アレルギーの人だっている、等々。しかし、ドイツならカスターニエン(橡の木)、フランスならプラタナスの巨樹の並木の美しさは息を呑むばかりだ。それらの並木は街に生きる人々の誇りであり、生きる糧だ。

芽を吹き、緑葉を茂らせ、花をつけ、実を結び、やがて黄(紅)葉し、冬枯れの枝を寒風に晒す。そうした生命のサイクルを繰り返しながら木々は大きく育ってゆく。何年も、何十年も、ときには何百年もかけて。身のまわりの木々のそうした生命の営みを見ながら、木々と語らいながら、私たちは人生の年輪を刻んでゆくのだ。

木々は私たちを見守り育ててくれた「育ての親」なのだ。「木を伐るな」ともう一度言いたい。

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2012年5月22日 (火)

あふちとスズメ

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昨日は千里中央で「イソヒヨドリ」らしき鳥を見た。一瞬カラスかなと思ったが、カラスよりずいぶん小さく、ムクドリより少し大きめ。背中から尻尾にかけて暗い紺色。腹部の茶褐色を確認できなかったが、イソヒヨドリとしか考えられない。カメラをたまたま持ち合わせていなかったのが残念。

ここしばらくバードオウッチングの時間を持てないでいる。するとてきめんに、野鳥に対する感覚の敏感さが衰えているな、と自覚させられて悲しい。

今は身近なスズメとムクドリにお相手をしてもらっている。天王寺キャンパスの栴檀(せんだん)の木にとまったスズメ。去年の秋に実った果実を枝にたくさん残したまま、白と紫の可憐な花を咲かせた栴檀。その枝にスズメがとまっていた。スズメを誘っているのは花か実か。栴檀は万葉集では「あふち」。古代から日本人には親しまれたり忌み嫌われたりしてきた木らしい。山上臆良の歌:

妹(いも)が見し あふちの花は散りぬべし       わが泣く涙いまだ干(ひ)なくに             (妻が好んで見ていたあふちの花はもう散ってしまいそうだ 妻を亡くしたその涙がまだ乾かぬうちに)

2012年5月19日 (土)

桐の花

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東京の宿の窓から見た隣家の桐の花。白秋が「桐の花の淡紫色とカステラの暖かみのある黄色がよく調和する」と書いていたが、なるほどと思った。桐の花の薄紫が、洋風建築の破風のカステラ色とさわやかなハーモニーを奏でていた。

ついこの間まで、風にそよいで甘い匂いを漂わせていたアカシアの白い花房もあっという間に消えてしまった。今は池のほとりの花イバラ、街路樹のヤマボウシ、生け垣のクチナシが白い花を咲かせている。あと数日もすれば、ナツツバキの白い花も開くだろう。白い花が明るい日差しにまぶしく映えているのは、初夏らしくていい。

しかし、初夏の陽ざしをやさしく受け止めているような薄紫の木の花が私は好きだ。藤、ライラック、そして桐。

母校の豊中第2中学校の運動場に下りてゆく坂道のかたわらに、桐の大樹があって、初夏には薄紫の花をつけた。体操が苦手の私を見守ってくれているなどとその頃思ったことはなかったが、そうだったのかもしれないと今思う。

2012年5月15日 (火)

エゴの木

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これはエゴノキの花です。天満橋のOMMビルの前に白いエゴと赤いエゴがいま競い合うように咲いています。地味な木で、花もうつむきかげん。それでもよく見ると、薄紅の花に黄色の蕊(しべ)がはなやかで、それなりにせいいっぱい愛嬌をふりまいています。

花が終わ初夏には、たくさんの緑の実が鈴なり。この実には毒があって、実をすりつぶした液(魚毒)で漁をしたことがあったとか。むろん今は禁止。実をかじると「えぐみ」があることから「えご」だそうです。この花を見ていると、おおよそ「えぐみ」とは正反対の「さやけさ」を感じる私です。

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2012年5月13日 (日)

テントウムシと星の数

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テントウムシは「天道虫」と書く。太陽に向かって飛ぶから、天の神様(天道)にちなんで「テントウムシ」と言うそうだ。穂高町の碌山美術館の庭で、「ヨツボシテントウ」が白スミレの葉にとまっていた。

「ナナツボシテントウ」がいちばんポピュラーだ。背翅(せばね)の赤い地色に七つの黒い星を戴いている。碌山のテントウムシは、黒い背に四つの赤い星。当然「ヨツボシテントウ」だろうと早とちり。図鑑を見ると、「ヨツボシテントウ」とは言わず、「ナミテントウ」と言うそうだ。ナミテントウは、背中の地色も赤、黄、黒とさまざま、星の数も二つから二十くらいまでいろいろ。ほとんど個体ごとに模様が違っているらしい。「いくつ」と数で言うときりがない。だから「ひとしなみ」に「並テントウ」と言うのだろうか。個性化が進み極まると、括れないから「ひとしなみ」。

それでもやっぱり、たんねんに星の数、星の色を数えている「テントウムシ」好きもいるに違いない。星の色と数、その組み合わせはそれこそ「星の数」ほどあることになるから、「テントウムシ」の天文学者と言うところだ。そういえば、昆虫学者と天文学者は似ているような気がする。

2012年5月10日 (木)

安曇野の春

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連休の最終日に所用で東京に出かけたが、翌日信州・松本を迂回、美ヶ原温泉に一泊して帰阪した。中央線を行くと、小渕沢あたりから車窓の風景がぼやけるばかりの沛然たる雨になった。「街歩きもむりかな」と、今日一日どうやって時間を過ごそうかと迷ったが、トンネルを抜けて塩尻に出ると雨はすっかりあがっていた。

松本で降りると、うってかわった五月晴れの空。雪の残る北アルプスの山並みが遠望できた。町の大通りには街路樹のハナミズキがちょうど今満開。遅咲きのサクラ、ツツジ、ヤマブキなどもいっせいに咲きそろい、匂い立つ木々の新緑に映えていた。

翌日、安曇野まで足を伸ばした。微風に穂を揺らす緑の麦畑、雪の山並みを映す田の水鏡。畦に咲くさまざまな野の花。

学生だった頃(というともう50年近い昔)、テレビの連続ドラマ『パンとあこがれ』を夢中で見ていた。新宿中村屋の創業者相馬愛蔵・黒光夫妻とその周りに集った安曇野の芸術家群像を描いていた。黒光を演じた宇都宮雅代が眩しいほど輝いていた。以来、何回となく安曇野を訪れるようになったのだった。

萩原守衛の碌山美術館を訪れると、旧知に再会したような気持ちになった。北アルプスの雪を頂いた山並みを振り仰ぐと、過去なのか未来なのか、どこかはるか彼方から呼びかけられているような幸福感を覚えた。

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2012年5月 4日 (金)

ペルシア猫ならぬオキシペタラム

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「オキシペタラム」について書いたのは、今ではもう二年前のこと。千里中央の植木市で初めて見たときには、その不思議な花色に驚いた。朝の空が次第に明けそめてゆくようだと思った。

細い茎がどんどん伸びて自分の重みで倒れてしまう。茎を切るとミルク状の白い濃厚な樹液が滴り落ちる。手のひらにつくと、ねばねばする。いつの間にか厄介者扱いしていた。

この春、タンポポの綿毛のようなものがヴェランダのそこここに付着していることに気がついた。ひょっとすると、ポプラのような高木の花粉が遠くから漂ってきたのかと思っていた。

今朝、オキシペタラムの紡錘形をした種子莢が弾けて中から綿毛がのぞいているのを見つけた。オキシぺタラムはやっぱりひときわ異彩を放つ演出家だ。画像を拡大して見てください。輝く銀の糸のような綿毛がとても美しいですよ。

Photo

2012年5月 2日 (水)

木を伐るな

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植物園で水車の前にたたずむ幼い子たち。その見つめるまなざしの真剣さ。水車を流れ落ちる水音に、この子たちは世界の不可思議を告げる<水のことば>を聞きとっているに違いない。

オーストリアの女流作家がある小説の中に次のような言葉を書きとめている。

「そうだ、私は日曜日が来ると(息子の)フィップスをつれてヴィーンの森をさまよったが、流れに出会うと心の中でこういう声があがった、― この子に水のことばを教えよ!石を越える。木の根を越える。この子に石のことばを教えよ!この子を新しく根づかせよ!木の葉が散る、というのもふたたび秋がめぐってきたから。この子に木の葉のことばを教えよ!」(バッハマン『三十歳』)

教えなくとも子どたちは、見て聞いて触って学ぶ。わたしは水車の前にたたずむ子どもたちを見て、「このせせらぎを止めるな!この石を砕くな!この木を伐るな!」とつぶやいた。

渡辺京二さんの「ひとが生きるということは樹木と語るということだ」ということばに、深くうたれた。

「この世に樹木が存在するというのは、人間の生存の(・・・)添えものなのではない。人間の生のそもそもの実質、あえて言えば中核をなすことがらなのである。この世に樹木が存在しないなら、人間は人間としての感性をもつことはできないのだ。」

「人間はなぜ樹木を尊重すべきなのか。それはその美しさを知るのは人間のみだからである。宇宙の美しき創造物である樹木はみずからはおのれの美しさを知らない。人間はかわりにその美しさを知るべく創造された生きものである。樹木の美しさを滅して何の痛痒も覚えぬものは、人間としてのおのれをはずかしめているのだ。」(渡辺京二『未踏の野を過ぎて』

「木を伐るな!」 木を大切にすることは未来を生きる子どもたちの命を守ることだ。

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