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2012年4月

2012年4月30日 (月)

えびね

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一昨年の春に友人からもらったえびねが今日咲いた。葉が茂り、根が伸びるばかりで、花が咲く日が来るのか半信半疑だった。花芽が地面からすっくと伸び上ってきたときには、うれしかった。花が開いてみると、夢に思い描いていたように、そしてご覧いただいているようにまことに気品に満ちた花だ。

2012年4月29日 (日)

白スミレ

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朝、急ぎ足の通勤の途中、公園通路を縁取る御影石の隙間から顔をのぞかせている白いスミレに目がとまった。どんなに窮屈な空間でも土があれば根を張って花を咲かせようとする生命のたくましさ。しかも、こんな可憐な花が。時間を忘れて思わずカメラを向けた。

 

2012年4月28日 (土)

八重桜

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ソメイヨシノはすっかり葉ザクラに変わった。今は八重ザクラが満開だ。

「ゆさゆさと大枝ゆるるさくらかな」というのは誰の句だったか。ゆったりとして明るく、温かくて優しい。きっとサクラをふくよかな女性のイメージと重ね合わせた句じゃないかな。

サクラというとソメイヨシノが代表格になったが、ソメイヨシノという品種が生まれ、あっという間に日本全国を席巻したのは明治になってからだそうだ。「散りぎわの潔(いさぎよ)さ」を愛(め)でたというが、本当だろうか。悲しいかな、「富国強兵」を推し進めるための「潔さ」の美学に利用されたのではなかろうか。私は、咲きそめ、咲き誇るソメイヨシノが好きだ。

サクラは交配で次々と新しい品種を生むそうで、日本全国には今300から400くらいの品種があるらしい。私などは、日本の野山をもっとさまざまな品種のサクラが彩ればいいと思う。そうなれば、サクラの美学ももっと多様で奥行きのあるものとなるのではなかろうか。

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2012年4月21日 (土)

チューリップとカリン

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リルケ『マルテの手記』(大山定一訳)のなかに、陽が射し昇る早朝パリ・チュイリュリイ庭園で「長い道に沿うた花園の花々が、ようやく目をさまして、一つ一つびっくりしたような声で「紅い」と叫んでいた」という箇所がある。どういうわけか、私はその花をアネモネだと決め込んでいたが、今度ドイツ語のテキストで確認してみたが、アネモネという名はなかった。(人間の記憶の曖昧さ!)

紅い草花を見ると、私はついその箇所を思い出す。数日前、通りかかった私に「紅い、紅い」と声をかけてきたのもアネモネではなく、チューリップだったが、このチューリップはほんとに赤い。

下の写真は、我が家のヴェランダのカリンの鉢植え。いつも、知らないうちに咲いて知らないうちに散っている。まるではにかんでいるようだ。花にも、それぞれに違った個性とふるまい方がある。

そんなカリンだが、ヴェランダから消えたらさぞ寂しかろう。

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2012年4月20日 (金)

ヘフリガーの日本の歌を聴く

ヘフリガーが歌った日本歌曲集のCDを聴いた。ドイツ語訳の『この道』、『花』、『城ケ島の雨』、『さくらさくら』、『出船』などなど。

聴きなれた日本語の歌をドイツ語で聴くことにためらいがあったが、ヘフリガーの声が響き始めたとたんに、すべての先入見が消え去った。そこに深々とした色を湛えて広がっているのは、国も民族も超えた原初的な心の風景だった。

『出船』では、「無事で着いたら便りをくりゃれ / 暗いさみしい火影のもとで / 涙ながらに読もうもの」というフレーズが、

"Wenn du gut / angekommen, schreib mir einenn Brief! Im dunkeln Kaemmerlein / beim Kerzenflackerscheine hier / werd' ich ihn weinend lesen, Ach. waer' / ich bei dir! "

とドイツ語で歌われる。語彙・音数の多さから、ドイツ語は「何と説明的な」などと言ってはなるまい。日本語の詩にはないAch. waer' / ich bei dir! (ああ お前のそばにいられたら!)に込められた感情は、「くりゃれ」「ものを」という日本語表現と等価なのだ。あるいは、そう思わしめるのはヘフリガーの歌唱力、人間としての深さ、大きさなのだろう。

ヘフリガーは、私には何といってもカール・リヒター指揮『マタイ受難曲』の福音史家(エヴァンゲリスト)だ。初めてその声を聴いたときの感動が今も忘れられない。ヘフリガーの張り詰めたテノールは、繊細にして豪放、リリカルにしてドラマティック、明確にして深い陰影に富んでいた。『マタイ』を繰り返し聴いた日々のことを懐かしく思い起こした。

 ... エルンスト・ヘフリガー,ERNST HAEFLIGER,ユニバーサル

2012年4月17日 (火)

タンポポとスミレとタケノコ

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いっきょに春真っ盛りになりましたね。今日は、近所でタンポポとスミレとタケノコと、ご対面。元気のおこぼれにあづかった感じです。

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2012年4月15日 (日)

夜ザクラの向こうに宵の明星

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小川洋子『博士の愛した数式』の博士は、明るいうちから、他の誰にも見えない「宵の明星」を西の空に見つけるのが得意だった。

私も勤め先の学習センターの門を出て、西の空にいっとう明るく輝く「宵の明星」を見つけると、体にまつわりついた一日の疲れがふーっとほどけて行くような気がする。

今日は自宅近くの池のはたの夜サクラごしに「宵の明星」がのぞいていた。私のプリミティヴなカメラに写るかしらと思ったが、見事に(?)に写った。

2012年4月13日 (金)

武蔵野の面影

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4月11日東京で会議。三鷹に泊まったが、朝、静かな住宅地を通ってJR中央線「武蔵境」駅へ。このあたりには国木田独歩の描いた「武蔵野」の面影が色濃くとは言えないが、かすかに残っている。

「武蔵野を散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向く方へゆけば必ず其処に見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただその縦横につうずる数千条の路を当もなく歩くことに由って始めて獲られる。」

むかしの街道筋をできるかぎり生かして開発が進められたのだろう。宅地と宅地の間に果樹園や、庭木の植栽場が散在し、小公園や住宅の庭にも亭々たるケヤキやサクラの古木が残り、通りのそこここに小さな祠が見え隠れする。

時の流れが自然に寄り添ってる。そのことが通りを行く人々の表情を穏やかにしているような気がした。

住宅の生け垣にツタが伸び、椿の赤い花にからまるように白い花が咲いていた。道路を掃除していた女性に「何の花ですか」と訊くと、「アーマンディ。クレマチスの一種です」と答えてくれた。

下は、宅地に挟まれた畑に咲いていた「源平枝しだれ」。

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2012年4月 9日 (月)

京のさくら横町

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京都木屋町高瀬川ぞいのソメイヨシノはいま満開。宵の灯りが川面に映えて京都ならでは艶な風情。下は近衛庭園の糸桜。

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2012年4月 4日 (水)

ひと足さきに、サクラ。

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一昨日4月2日(月)。豊中市役所に所用があっての帰り道、ふと思い立って久しぶりに阪大豊中キャンパスまで足を伸ばした。サクラの開花が気になっていた。「3分咲きとまで行かなくとも、ちらほら咲きくらいは」と期待していたが、石橋坂のサクラもやはりまだ蕾のままだった。

ラフな恰好なものだから、「顔見知りに会ったら困ったな」と思っていたら、向こうからフランス語のK先生のにこにこ顔。「何ですか、今日は?」「サクラを見に。まだですね。」「保健センター横のサクラはもう満開ですよ」とK先生。

そう、あのサクラ。キャンパスではいつも一番乗り。ほかのサクラより一足先に咲いて、ソメイヨシノが咲くまでに大抵ひと雨あって、そぞろ歩きの花見客が散り敷いたその白い花びらを踏んで行くのだった。

そんなことを思って急ぎ足で行ってみる。みごとに満開。この白い花ごしに、春の朧ろ月を眺めた日のことを思い出した。

保健センター裏の待兼池の畔りに数十本の白梅の林がある。趣きのある古木にはまだ遠いが、年ごとに華やぎを増してきていたものだ。その日にはすっかり花期を終えていた。一本だけ種類が違っているらしい木が、花をつけていた。白梅のような<艶な色気>はない。清楚。梅ではないのかもしれない。

*追記:萼(あるいは苞?)が緑色の梅として、「月の桂」「緑萼」などの品種があるそうだ。

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2012年4月 1日 (日)

渡辺京二『逝きし世の面影』

渡辺京二『逝(ゆ)きし世の面影』(平凡社ライブラリー)を読んだ。幕末から明治にかけて日本を訪れた外国人の目と筆を通して描かれた日本の風景、人びとの姿、暮らしの記録から,、美しくもおおらかだった「逝きし世」の面影を再構成し追体験しようとした書である。「愛惜でも追慕でもない」と著者は書いているが、行間からは今は消え失せた過去の日本の姿が、まるで夢まぼろしのように浮かび上がってきて、ときに胸に熱いものがこみあげてきた。

英国使節団の一員であったオズボーンは、1858年(安政5年)長崎の土を踏み、「この町でもっとも印象的なのは男も女も子どもも、みな幸せで満足そうに見えることだった」と記した。その後日本を訪れたほとんどすべての異邦人が同じ印象をいだき、彼らの目に日本は「妖精の住む不思議の国、小さくかわいらしいおとぎ話の国」と映ったのだった。

幕末、1861年春プロシア使節団のヴェルナーは、長崎の金毘羅様の祭礼に胸を揺すぶられた。「すでに何千という凧が30メートル上空で入り乱れ、うなりを上げていた。少なくとも一万人が集まっていた。大地は豊かな緑におおわれ、そこに家族連れが休息場所をつくり、持参した弁当を広げていた。(私たちは)行く先々で手をひかれ草の上に坐らされた。(・・・)ここには詩がある。ここでは叙事詩も牧歌もロマンも、人が望むありとあらゆるものが渾然一体となって調和していた。平和、底抜けの歓喜、さわやかな安らぎの光景が展開していた」と書く。

1889年英国公使の妻として来日したメアリー・フレイザーの目には「この国の下層の人々は、天が創造し給うたさまざまな下層の人間のなかでももっとも生き生きとして愉快な人々」と映った。

厳しい身分秩序が当時人びとに過酷な暮らしを強いていただろうことは想像に難くない。しかし、1873年(明治3年)に来日したチェンバレンは日本には「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」と書いている。

1889年に来日した英国の詩人エドウィン・アーノルドは「生きていることをあらゆるものにとってできるかぎり快いものたらしめようとする社会的合意、社会全体にゆきわたる暗黙の合意は、心に悲嘆を抱いているのをけっして見せまいとする習慣、とりわけ自分の悲しみによって人を悲しませまいとする習慣をも含意している」と記した。

それらの「ユートピアとしての日本」像を、西欧優位のいわば「上から目線」=オリエンタリズムと断罪し、社会の裏面・暗部に目が届いていないとする批判に対し、著者は果たしてそうだろうかと問いかけている。

「(異邦人の目に映ったものが)圧倒的に明るい像だとするならば、像をそのように明るくあらしめた根拠について思いをはせよう。ダーク・サイドのない文明はない。また、それがあればこそ文明は豊かなのであろう。だが私は、幕末、日本の地に存在した文明が、たとえその一側面にすぎぬとしても、このような幸福と安息の相貌を示すものであったことを忘れたくない。なぜなら、それはもはや滅び去った文明なのだから。」

そしてこの「滅び去った文明」の意味を、渡辺さんは次のように解き明かしている。当時来日した外国人の「衆目が認めた日本人の表情に浮かぶ幸福感は、当時の日本が自然環境との交わり、人びと相互の交わりという点で自由と自立を保証する社会だったことに由来する。浜辺は彼ら自身の浜辺であり、海のもたらす恵みは寡婦も老人も含めて彼ら共同のものであった。イヴァン・イリッチのいう社会的な「共有地(コモンズ)」、すなわち人々が自立した生を共に生きるための交わりの空間は、貧しいものも含めて、地域すべての人々に開かれていたのである」と。

藤村の『夜明け前』は私のもっとも好きな書物の一つだが、このたび『逝きし世の面影』を読んでその理由の一半がよくわかった。『夜明け前』に描き出された幕末期の庶民の暮らしを満たしていた「豊かな貧しさ」とも言うべきものに、私は得も言えぬ「懐かしさ」(私自身がそれを体験したわけではないが、身体の奥深くに沁みこんだ歴史の記憶)を感じていたのだろう。そしてまた、そうした「豊かな貧しさ」が急速に失われていったことに心疼くような悲しみを感じていたのだ。『逝きし世の面影』はそのことを私に気づかせてくれた。

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