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2012年3月 4日 (日)

吉野通 (2)

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疎開先から吉野通に住むようになって間もないころ、豊中駅西口そばのキリスト教系のA幼稚園(2年保育)の入園テストを受けた。小学校入学が昭和26年だから、逆算してみると昭和24年の2,3月のことだ。担当の先生の前に引き据えられて、図形を選んだり並べ替えさせられたような記憶がある。

テストには見事に(?)に合格したが、入園式の日に園正面の門柱にしがみついて教室に入ることを拒否した。私をそのまま置いて帰って行った母は、思えばさぞ辛かったことだろう。私にはお仕置きが待っていた。真っ暗な物置部屋に閉じ込められて、外から鍵をかけられた。暗闇の中、高いところの小窓だけが仄明るかった。泣けど叫べど、誰も来なかった。どれくらい続いたものか、ほんの数十分のことだったかもしれないが、私には一日中閉じ込められていたような気がする。ひっつめ髪で縁なし眼鏡をかけた初老のシスターの紅潮した頬を今もはっきりと憶えている。幼稚園は一年で退園した。病弱でもあったが、園にはついになじめなかった。

幼稚園には苦い思い出ばかりで、楽しい思い出はほとんどない。こんなことがあった。お弁当のメザシを残したら、それを全部きれいに食べ終わるまで許されなかった。先生が三人くらい私の席を取り囲んで、代わる代わる説諭された。まわりの園児は全員がすでにお昼寝に入っていた。どう決着したか記憶にないが、それ以来大学を終えるころまで、私は魚を食べられなくなった。というより魚を食べることを拒否した。ひ弱でわがままな子だったと言えば、それはそうだが、そのときの苦痛を思い出すたびに、私は「食」で子どものしつけをしようなどとは金輪際思わない。

入園してどれくらいたった頃か、砂場で遊んでいるとき、その様子をそばにしゃがんでじっと見つめていた先生(シスター)の顔を、今ごろはっきりと思い出した。色白のふっくらした丸顔で、髪を左右で三つ編みにした園でいちばん若い先生ではなかったかと思う。私はその先生だけが好きだった。先生の膝頭を上目づかいに時々盗み見しながら、甘えることもできなかった。

幼稚園を中退してから小学校に上がるまでの一年間、ぶらぶら過ごした。肺浸潤を患って、当時は吉野通から遠くないところにあった市民病院に通院していた。医薬品がまだ入手しにくい時代で、父が仕事のつてで塩野義製薬のアンプルが手に入ると、そのつどそれを抱えて一人で注射をしてもらいに行った。病院の玄関の傍らにゼニアオイの花が日を浴びていた。ゼニアオイの花はなぜか今も好きだ。

その頃、近所の駄菓子屋で買った「ベニチョコ」(もちろんチョコなどではない。砂糖を多分有毒な色素で赤く染めた菓子)を食べて、激しく嘔吐した。その苦痛を今も記憶している。あれほど激しく嘔吐したことは、それ以後今日に至るまでない。父はそれ以後、ことあるごとに「口がいやしい」と私を叱った。そうかもしれないと思いつつ、悔しくて仕方がなかった。

当時ラジオでは「尋ね人の時間」というのがあって、戦争で離散した家族を捜す放送が絶えず流れていた。人名と旧満州の地名のリストが淡々といつ果てるともなく読み上げられていた。そのアナウンサーの声が今も耳に残っている。

それが突然中断して、朝鮮戦争勃発の臨時ニュースが流れてきたことがあった。私は庭で遊んでいた。父が離れの机で図面を引いていた。父はいきなり立ち上がって、「戦争だ」と言った。いまその日を年表で確認すると、昭和25年6月25日のことだ。

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