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2012年3月 1日 (木)

吉野通

20111122_015

先の「面影」の記事に書いた従姉のことを思い出してから、自分の記憶の始まりに向かって深い森に一歩一歩踏み込んで行った。

私は昭和19年8月に疎開先の母の実家(岐阜県海津郡)で生まれた。実家での日々は(思い出す日が来るかもしれないが、今のところは)まったくと言っていいほど記憶していない。豊中に引っ越してきたのは昭和23、4年、私が4、5歳の頃のこと。それが正確に何年何月だったのか、わからない。両親に聞いておけばよかったが、今さら悔いても遅い。

最初に住んだのが阪急豊中駅から2,300メートルばかり西の「吉野通」(今は玉井町)だった。 「吉野通」という地名、私にはどこか遠くへと誘われるような響きがある。私の記憶では、東から西へまっすぐに続く通りで、その西の端が下り坂になったところで「吉野通」はふっと視界から消える。それが「涯しなさ」と「はかなさ」を同時に感じさせる。しかし今、そのあたりの市街図を見ても、「吉野通」がそんな長い通りだったはずはない。<時間の感覚>が<空間の記憶>に影を落としているのだろうか。 (ちなみに「通り」という美しい地番表示をなぜ町に変えたのだろう?「通り」ということばには、「訪れ」と「別れ」の気配が漂っている。)

「吉野通」の住まいは借家だった。たぶん昭和初期の和風建築で、宏壮とは言えないが庭と離れもあってそれなりに風格のある住宅だった。サザンカの生け垣に囲まれて、木戸をくぐると、玄関まで敷石づたいに5,6メートル、小さな庭には築山めいたものもあり、築山の苔の上にキンモクセイの橙色の花が散り敷いていた。母屋に伯父(父の兄)一家が住み、離れに私たち一家が住んでいた。

私は男兄弟4人の3番目だったが、「吉野通」で兄や弟がどんなふうだったか、あまり記憶していない。むしろ、伯父の一人娘で5,6歳年長の従姉のことの方が記憶に残っている。時々、離れに顔をのぞかせた。涼しげというかひんやりとした印象を与える子で、地面から浮き上がって漂っているニンフめいた感じがした。10歳前後の少女というものは、年下の男の子にはそんな不可思議な存在に見えるものかもしれない。

その従姉と弟と私の3人が近くの小川でメダカ捕りに興じていたら、私の裸足の脚にヒルが吸いついた。ヒルは頭を皮膚の内側に食い込ませて血を吸う。従姉が親指と人差し指でヒルとつまんで力いっぱい引っ張って取ってくれた。そのときの従姉の瞳を中央に寄せた真剣な表情が忘れられない。向こう脛に小さな穴があいて、血がたらたらと流れた。気がついたら日が西に傾き、まわりの菜の花畑一面に茜色が広がっていた。後ろも振り返らずに走る従姉の背中を、置いてけぼりを食うまいと必死で追いかけた。

どこかで借り受けたリヤカーに家財道具を積み、それを父が引いて、吉野通から豊中市北部の桜井谷へ引っ越したのが、小学校へ入学する直前のことだった。それ以来、伯父一家と顔を合わすことはほとんどなくなった。

伯父夫婦は溺愛する一人娘を中高一貫制の梅花女子学園に通わせていると聞いた。彼女はその後何度か桜井谷の家に訪ねてきたこともあった。しかし、それも次第に間遠になり、やがてぱったりと途絶えた。梅花の高等科を終え就職した頃、「Tちゃんが会社に訪ねてくれた」と父が何度か嬉しそうに言っていた。それを聞いて、懐かしさと寂しさがこみあげてきた。

鈴を振るような笑い声を残して遠ざかってゆくうしろ姿が、まるで夕暮れの沖に出てゆく小舟のように、私の記憶の風景の中にはかなげに揺曳している。

その従姉が結婚し、男の子が生まれ、その子が警察官になり、本人は心を病んだと、風の便りに聞いたのは何年後のことだろう?

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