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2011年9月17日 (土)

大阪ことば学・続

前々の記事で『大阪ことば学』を取り上げたが、本をめぐるエピソードだけでは、羊頭を掲げて狗肉を売ることになろう。少しだけでも本の中身に触れておこう。著者は日本語学者なのだが、方言学者ではない。したがって、この本は大阪弁を言語学的に客観的に検証しようとの目論見で書かれているわけではない。

著者は、大阪で生まれ、大阪で育った、大阪弁をこよなく愛する大阪人だ。大阪弁を愛する大阪人にしかわからない大阪弁の微妙なニュアンス、屈折が(これは日本語学者ならではの)鋭さで見事に浮き彫りにされていて、私のような大阪人には「我が意をえたり」と思わず膝を打ちたくなるが、これを他郷人に納得してもらうのは容易ならざることであろう。

客観性を放棄しているわけではない。客観性を超えてしまっているのだ。しかし、そのことはこの本の欠点では決してなく、何よりの強みであり、魅力だ、と私などは思う「あばたもえくぼ」というのは、好きにならなければ決して分からない美点・魅力というものがある、ということなのだから。

著者によれば、大阪弁の最大の特色は対人、対自関係における絶妙の距離感覚ということになる。他人との間合いを正確に測りながら、事がもっともなめらかに進むようにことばを繰り出す。ことばを一ひねり二ひねりする。ことばに色を添える。ことばの「身ごなし」の軽やかさ、しなやかさ、そしてしたたかさ。

大阪弁の「当事者離れ」と著者は呼んでいるが、つまり渦中の当事者としての自分から自在に距離を置き、自分を第三者的に見、語る能力が大阪弁には備わっている。他郷人には「無責任」とも受け取られかねないが、そうではない。離れた高いところ(または、低いところ)から自分をつき放して見ることによって、見えないものが見えてくる。自分の可笑しさ、愚かしさ、悲しさも見えてくる。それが大阪の「笑い」になる。

私の紹介がいささか抽象的で、それで「具体的にどうやねん?」と言われそうだが、それは本書を読んで下さい。一つだけ実例として、本書で引かれている島田陽子の「うち知ってんねん」の一節だけを挙げておこう。

あの子 かなわんねん / うちのくつかくしやるし / ノートは のぞきやるし / わるさばっかし しやんねん / そやけど / ほかの子ォには せえへんねん / うち 知ってんねん

そやねん / うちのこと かまいたいねん / うち 知ってんねん

下の写真は先日訪れた比叡山坂本の石垣。不揃いな自然石をそのまま積み上げて、ひょっとしたら千年来(?)ずれることなく揺らぐこともない。

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