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2011年5月

2011年5月31日 (火)

ヤマボウシとツバメと

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このヤマボウシとツバメとは、お互いに無関係である。両者を結ぶ因果関係も、物語もない。あるとすれば、台風一過の雨上がりの朝、ついうっかり閉館日であることをわすれて図書館に出かけた私の「うかつさ」を、優しくかどうかはわからないが、ともに慰めてくれたことである。

「ヤマボウシ」は多分、山中で出会う白装束の「山法師」さんから来ているのだと思う。ピンクの装束の「法師」さんは珍しい。

喉赤き燕(つばくらめ)が二羽電線にいて、すばやく遠ざかってゆく低気圧の背中をじっと見つめていた。「ツバメは自由だなあ。」

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2011年5月29日 (日)

幕張のシジュウカラ

一昨日の朝、出張中の幕張の公園でシジュウカラを見かけた。ケヤキの木に生えたキノコをついばんでいた。楽しげに「ツウィピーツウィピー」と鳴いていた。美味しいのかしらん?お腹をこわさぬことを祈るのみ。

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幕張はメッセエリアを中心にハイテク産業の高層ビルが林立するテクノシティだ。ただ埋立地に造られた人工都市だから、今度の東北北関東大地震の被害に弱かった。液状化のせいで舗道がいたるところで破壊され波打っている。

シジュウカラに出会った公園を取り囲む舗道もレンガを掘り返してぶちまけたような惨状だ。「水に浮かぶ土地なんて信じるもんじゃありませんよ」という『ファウスト第2部』のバウチス(素朴で信心深い老夫婦のおばあちゃんの方)のセリフを思わずにいられなかった。シジュウカラはどう思ったのだろう?

2011年5月26日 (木)

マンネングサにジャノメチョウ

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野鳥との出会いを期待して、久しぶりに千里川沿いを歩いた。「はぐれコサギ」と「おとぼけムクドリ」に出会った。北へと帰りそびれたコサギ、カワセミを探していた私の目の先1メートルの橋の欄干とまったムクドリのこと。

足元の川岸にマンネングサの黄色の絨毯。そこにジャノメチョウが止まっていた。

2011年5月21日 (土)

ニオイバンマツリ

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天王寺の裏町にニオイバンマツリ(バンマツリカ)の花が咲き、ジャスミンのような強い芳香が漂っていた。

ニオイバンマツリの花をはじめて見たときは、ちょっと大げさだが「世界にはこんなに美しい花木があったのか」と思った。10年以上も前のこと。阪急豊中駅近く千里園の個人住宅の庭に、樹高2メートル以上の大きなバンマツリの木があって、おびただしい数の紫と薄紫と白の花が咲き、照りのある濃い緑の葉と美しいコントラストを見せていた。

玄関に出てきた高校生くらいの男の子に、「この花、何という名ですか?」と思わず訊いてしまった。「よく訊かれます。おばあちゃんに訊いて、名札を掛けておきます」との返事。数日後に行くと、「バンマツリ」と書かれた札が根方に置かれていた。

バンマツリの鉢植えを植木市で見つけたときは嬉しかった。鉢植えだからいっこう大きくならない。小木のまま、それでもけなげに花を咲かせている。蒸し暑い夜、網戸の向こうから熱帯ふうの香りが忍び込んでくるのはいいものだ。バンマツリが匂うと、あの名札を掛けてくれた男の子を思いだす。

2011年5月13日 (金)

ハリエンジュ(ニセアカシア)

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このブログを読んでくださっているめだちゃんが、阪大の吹田キャンパスにアカシアの花が咲き始めていると、報告してくださった。

私も、お昼休みに天王寺学習センター(大阪教育大学と同居)のキャンパスをぶらぶらと散歩して、ハリエンジュ(ニセアカシア)の20メートルを超えるような巨木が数本、いま真っ盛りに白い花をつけているのを見つけた。

たわわな(?)花房から<切ないような>甘い芳香が漂ってくる。<切ない>と感じるのは、「アカシアの雨がやむとき このまま死んでしまいたい」という西田佐知子のけだるい声がアカシアの記憶にかぶさってくるからだろうか?この歌がヒットしたのは、私がまだ高校生の頃のことだ。

ハリエンジュはドイツ語ではFalschakazie(Schein- akazie)、和訳すると偽アカシア(アカシアもどき)。俗称ではSilberregen(銀の雨)というそうだ。「アカシアの雨」はひょっとすると、アカシアに降る雨ではなく、雨のように降るアカシアの白い花びらのことかもしれない。

清岡卓行の『アカシアの大連』には、5月アカシアの花の薫りに満たされる大連の風景が、それこそ「切ない」望郷の思いを込めて美しく描かれている。

「夕ぐれどき、彼はいつものように独りで町を散歩しながら、その匂いを、ほとんど全身で吸った。時には、一握りのその花房を取って、一つ一つの小さな花を嚙みしめながら、淡い蜜の喜びを味わった。(・・・)そして彼は、この町こそ自分の本当のふるさとなのだと、思考を通じてではなく、肉体を通じてしみじみと感じたのであった。」

フランスでは、アカシアの花房に衣をつけて揚げ砂糖をまぶしたお菓子があるらしい。そんな夢のようなお菓子をぜひ一度食べてみたいが、キャンパスのアカシアの木は背が高すぎて、花房に手が届かない。

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2011年5月 9日 (月)

ユリノキ(百合の木)

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千里中央西から読売文化センターに向かって新御堂をまたぐ陸橋の両側にユリノキの並木が南北にのびている。陸橋の上は、5月初旬から中旬にかけて高い梢に咲くユリノキの花をまじかに見ることができる絶好のポイントだ。

ユリノキは高木だから木の下から見上げても、茂った葉に隠れて花は見えないのが普通だ。カメラを水平に構えてユリノキの花を撮れる場所は、私の知るかぎり、ここしかない。

毎年この季節、ユリノキの花を見るのを楽しみにしてきた。昨年もこの場所に来てみた。ところが、ユリノキの街路樹が大胆に枝払いされて丸裸にされていた。この季節になっても、残された太い枝からわずかな若葉が芽吹いているばかりだった。がっかりした。物の本によると、ユリノキの花は大量の蜜を滴らせるらしい。木の下に止めた車が汚れるとの苦情があったのかしらん。そうだとすれば無粋な話だ。(そうでないかもしれない。)

今日は、ユリノキの花との2年ぶりの再会を心に期して千里中央に出かけた。今年になってもまだ花の数は少なかったが、少ない花が精一杯見事に咲いていた。「ほらほら、ユリノキの花が咲いていますよ」と、通り過ぎるひと一人ひとりに声をかけたかった。

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2011年5月 5日 (木)

犬養孝先生のこと

二上山のことを書きながら、万葉集の犬養孝先生のことを思い出していた。

大学の1回生のとき受けた犬養先生の万葉集講義は、200人以上入る大講義室で立ち見が出る盛況ぶりだった。先生は折々季節の花にちなんだ歌を取り上げて、その花を手に講義をされた。花をかざしながら朗誦し、ときに舞を舞われた。

しかし2回生になり、「万葉集講義・中級」になると受講生が急に減って、あるとき教室に行くと、学生は私ひとりだった。先生が来られて「今日はあなた一人だから、私の研究室で授業をしましょう」とおっしゃって、先生の研究室に招じ入れられた。先生と一対一の授業で、私は硬くなりっぱなしだった。

一人の私に向かって、先生はいつもの授業と少しも変わらぬ静かで熱のこもった調子で講義をして下さった。そればかりか、そのときも先生は一輪の花をもってきておられて、私ひとりの前でうたい舞って下さった。その講義の万葉歌が何だったのか、何の花だったのか、私は先生の手元を見つめるばかりで、残念ながら今はまったく憶えていない。若さなのか、愚かしさなのか。そのとき、胸に満ちた温かいずっしりとした思いだけが、記憶に残っている。

それから2年くらい後のことだったかと思う。友人のD君が心臓病で亡くなったとき、その遺稿集を作るために、彼の残したレポートを受け取りに先生のお宅を訪問したことがあった。お宅は東粉浜の三軒長屋の一角だった。「この侘び住まいのことか」と、私は驚いた。というのも、あるとき先生が「拙宅の裏に咲いておりましてね」と浜木綿(ハマユウ)の花を授業に持って来られたことがあって、私は勝手に豪壮なお宅を想像していたからだった。

私たちは突然お邪魔したのだったが、用件を述べると、先生は廊下といわず階段といわず山積みされたおびただしいレポートの中から即座にD君のものを取り出して「そうですか、そうですか、亡くなられたのですか、いいレポートでしたよ」と私たちに手渡してくださった。玄関口の薄暗いたたきの向こう側に裏口の矩形の明るみが見え、南海電車が大きな音を立てて猛スピードで通り過ぎてゆくのが見えた。あそこに浜木綿が咲いていたのだと思うと、胸がいっぱいになった。

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(上の写真は、自彊術のお仲間からいただいた花です。名前は、シラユキゲシ(白雪芥子)。本文とは関係ないのですが、あまりきれいなので・・・)

古代残照 ― 二上山

近鉄南大阪線で大和路を往くと、列車の右手に二上山の二つの頂きが互いに寄りそうように並んで姿を現わす。それを見ると、いつも大和に来たなと思う。惻々と胸に迫ってくるものがある。

そういうわけで、天王寺の放送大学の学舎の窓から南の方角にうっすらと二上山(にじょうざん)のシルエットを望むことができるのを発見したときは、むしょうに嬉しかった.。

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現身(うつそみ)の人なる吾や明日よりは二上山(ふたかみやま)を弟背(いろせ)と吾が見む(大来皇女)

天武天皇崩御のあと朱鳥(あかみとり)元年(686年)十月三日、天武天皇の第三皇子である大津皇子は、謀反の嫌疑により死を賜り、二上山に葬られた。大来皇女(おおくのひめみこ)は大津皇子の異母姉である。

わが背子を大和に遣ると小夜更けてあかとき露にわが立ち濡れし(大来皇女)

大津皇子が伊勢神宮に赴き、斎宮であられた大来皇女にひそかに逢われた。皇女は大和に帰る弟君を夜通し門口に立ち露にしとど濡れるまで見送られた。「遣る」の語に「名残惜しいけれども帰してやるという意志があり、そこに強い感動がこも」っていると茂吉は評している。皇子の伊勢下向がいつか確定はできないが、悲劇の予感は否みがたかったのであろう。

二上山を見ると、心の隅々まで古代の仄暗い残照に浸されるような気がする。

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