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2011年4月

2011年4月19日 (火)

ヒメヒオウギ(姫檜扇)

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昨日から千里中央のセルシー広場で恒例の植木市が始まった。年に4回くらい開催される人気の(私が楽しみにしている)イヴェントだ。月曜から金曜まで1週間の間に、これまではたいてい二、三回も足を運んできた。今日も、時間がないのに慌しく見て回った。

見知らぬ人との出会いは期待と不安がこもごもして、嬉しいばかりではない。緊張もある。しかし、見知らぬ花や鳥との出会いは只々楽しい。今日は、ヒメヒオウギ(姫檜扇)と出会った。

たそがれ始めた時間にヴェランダで「花仕事」。アジサイを背にしたヒメヒオウギの写真、ちょっとピンボケのところが可愛いと自画自賛です。

マガモとコガモ

何回か前の記事(「この空を飛べたら」)の中で、同じカモ類でありながら、例えばマガモとコガモがまるで違った声で,違った鳴き方をするのが不思議でならない、と書いた。鳴き声だけ聞いたら、同じカモ類だとはとても思えない。

マガモとコガモにとどまらずカモ類一般は、形態からする類縁性は明らかだから、その祖先を同じくしていて、進化の途上で違った体型と体色を獲得したのだろう。しかし、彼らの鳴き声・鳴き方の違いは、進化の途上で次第に差異化してきたといった程度ではない、もっと本質的な違いであるような気がする。

マガモとコガモそれぞれが、<生きる戦略>として、<決断>に基いて、違った声と鳴き方を<みずから>選び取った、としか私には思えない。遠い遠い昔に、マガモにはマガモの、コガモにはコガモの神話的な物語があったのではないだろうか。

例えば、あるときマガモが敵の襲撃に遭遇したとき、親マガモが子マガモに危険を知らせようとして、あるいは敵を威嚇するために自分でもびっくりするような頓狂な声を発した。それで敵が退散して以降、マガモはその声、その鳴き方を自分の地声として<自覚的に>選択したというようなこととか・・・科学的進化論からはアントロポモルフィズム(神話的擬人化)として一笑に付されそうだが。

生き物の姿を見たり、声を聞いたり、ふるまいを観察していると、そこに何か物語を空想してしまう。それも生き物と向かい合う楽しみだ。(写真は、上がマガモ。下がコガモ。)

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2011年4月18日 (月)

ビルの谷間のお花畑

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京阪天満橋駅近くのビルの谷間の、歩道と車道にはさまれたわずかなスペースに、この小さなお花畑はもう二十年もこのままに大切にされてきた。というか、手入れもされずに放置されてきたようにも見える。しかし、「こんなふうに大切する」仕方もある、と思う。

たぶん誰かが無造作に蒔いたさまざまな花の種が、この時期になると色とりどりに咲き競う。ポピー、キンギョソウ、マーガレット、ストロベリーキャンドルなどなどが、ハコベ、カラスノエンドウ、キンポウゲなどなどのいわゆる雑草に立ち混じって咲いている。

素朴で可憐でファンタジックな趣きが楽しい。整然と花苗が植え付けられた花壇と違って、「押し付け」がないところが嬉しい。

さて、大都会の真ん中で、こんなさりげない演出(?)がいつまで続けられるのか?都市の成熟度を測る試金石かもしれない。

2011年4月13日 (水)

つつむ―むすぶ―たたむ

私が小学生だったころ、学期ごとの終業式の日、担任の先生が「通信簿」(「伸びゆく力」と表記されていたこともあった)を風呂敷につつんで教室に持ってこられ、<うやうやしく(と私たち生徒には思われた)>教卓の上に置かれた。その風呂敷包みを生徒たちは固唾を呑んで見つめたものだった。先生はきっと前の晩遅くまで、一人ひとりの生徒の顔を思い浮かべながら、思いを込めてペンを走らせておられたに違いない。その風呂敷包みは先生にとってもずしりと重かったはずだ。

風呂敷にまつわる嬉しい思い出や悲しい思い出を、私くらいの世代は少なからず持っている。母が左手に風呂敷包みを大事そうに抱え、右手で私の手を引いて駅裏の路地に連れて行ったことがあった。苦労してやっと新調したばかりの父の革靴を質入れするためだった。そのときの和服の母の小さな背中を今も憶えている。母はどんな思いで父の靴を風呂敷につつんだことだろう。

風呂敷はいいものだ。風呂敷は懐かしい。この頃はちょっとした買物をすれば、品物をオシャレな紙袋やポリ袋に入れてくれる。きれいだし便利だから、それをさまざまに再利用する。風呂敷にはもう出る幕がなくなってしまったようだ。惜しいことだと思う。

風呂敷を上手に扱うことには、つつむーむすぶーたたむという<生きる>ためのもっとも基本的な所作が含まれている。小学校の授業でいま一度きちんと風呂敷の使い方を教えてみたらどうだろう。(ひょっとしたらちゃんと行われているのかもしれないが・・・)

つつむーむすぶーたたむという所作は、手先の動きだけにとどまらない。つつまれる(きっと大切な)ものへの<いつくしみ>がなければ、きれいにつつめない。つつんだものを壊さないように運ぶ気構えがなければ、しっかりと美しくむすべない。取り出したものに対する愛惜がなければ、広げた風呂敷の隅をそろえてきちんとたためない。一連の所作は、<ひと>と<もの>との愛情と節度ある関係の表現なのだ。

つつむーむすぶーたたむという<身体の>所作は、同時に<心の>所作でもある。<つつむ>ことは<だく>ことへと、<むすぶ>ことは<にぎる>ことへと、<たたむ>ことは<あわせる>ことへと 同心円を描いて広がってゆく。<ひと>と<もの>との関係は、<ひと>と<ひと>との関係と表裏でもある。

私がこんなことを考えたのは、『正しいパンツのたたみ方』というジュニア向けの平易で具体的で奥の深い英知の書に触れたからである。

著者の南野忠晴さんは高等学校の家庭科の先生。13年間英語の先生をしたあと、家庭科教師に転じた。主に知識を教える英語、数学などが主要教科とされ、自分の生活と身体と感性を自分で律する術、技を教える家庭科、体育、芸術が副教科とされていることに疑問を感じ、主と副が逆転していると思ったからだ。

私は、子供のころに自分も南野先生の楽しくてためになる授業に出ていたらと思わずにはいられない。

正しいパンツのたたみ方――新しい家庭科勉強法 (岩波ジュニア新書) 正しいパンツのたたみ方――新しい家庭科勉強法 (岩波ジュニア新書)

著者:南野 忠晴
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2011年4月 4日 (月)

お花見

4月1日から放送大学での勤務が始まった。水曜日から日曜日の5日間、朝9時から夕方5時45分までオフイスに詰めている。こんな勤務形態は、大学時代にアルバイトで大阪府庁農林部林務課(今はそういう部署があるかどうか?)で一か月間続けたことがあっただけ。

6階にある部屋の窓から外を眺めると、JR天王寺駅をしきりに出入りする列車が見える。線路の上方の高架道路をたくさんの車が往来している。そして、その背後には60階もあろうかと思われる高層ビルがそびえている。大都会の風景である。

3年前にいったん仕事を退いてからは、もっぱら近隣の里山・里川とのお付き合いが続いてきた。そこで暮らす野の花や野鳥たち、小さな虫やチョウたち、そして何人かのバーダー(野鳥好き)とも馴染みになっていただけに、ちょっぴり寂しい。

今日は勤めはじめて初の週休日。明日からは千葉の本部への出張なので、見納めになるかもしれないと思って、京都府立植物園と御所近衛庭園へ桜を観に行った。去年より10日ほども遅れていて、満開の木もあれば、まだつぼみの固い木もあった。

植物園の杏(アンズ)は、最近流行(?)の岡本太郎に倣って、まるで「開花は爆発だ」と言いたげな咲きっぷりが興味深かった。そして、球根花の植え込み。

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