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2011年3月 5日 (土)

私のハンス・ハンゼン

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「輝け 風と光 / 清明 なんぞ白き わが校」と母校豊中高校の校歌は始まる。北原白秋作詞、山田耕作作曲.。ベスト・コンビの手になるものだった。ただ、在校時に歌った記憶はあまりない。「質実剛健 これわが精神」というフレーズがあって、私の(軟弱な?)体質、というか気分に合わなかった。「今さら」という気もした。両親は「爪に火をともす」ような明け暮れに憔悴していた。

「鬱屈した」高校時代だった。貧しくなくても、高校時代なんてたいてい鬱屈したものだろうけれど。

あの頃、毎日昼休みになると生徒会主催のフォークダンス会が開かれ、男子生徒、女子生徒が手を取り合って楽しげに踊り、笑いさざめいていた。その輪の中に、私はどうしても入ることができなかった。二階の教室の窓辺に立って、その光景を見下ろしているだけだった。「コロブチカ(行商人)」や「マイムマイム」のメロディーを聞くと、今も<切なさ>がこみ上げてくる。

踊りの輪に加わりたくても加われなかったのは、何のことはない自分の着ている制服が恥ずかしかったのだ。二人の兄からのお流れだったから、私の体格に合わせて母が制服の裾を切り詰めていた。だからポケットが上半分しかなかった。そんな屈辱的な制服で踊ることはできなかった。

その後トーマス・マンの『トーニオ・クレーガー』を読んだとき、「そうだよな、トーニオ!」と思わずうなずいた。近所から一緒に通っていた級友たちがいつの間にかバスで通学するようになって、私は2キロの道をひとりで歩いた。歩きながら、「白馬にまたがった騎士」がダンスする「俗物たち」をなぎ倒す情景が眼前をちらちらした。

「白馬にまたがった騎士とはまた!」と今なら笑うこともできる。他愛のない「鬱屈」だが、その当時は地面にめり込むような「鬱屈」だった。

トーニオにとってのハンス・ハンゼンのように、私も憧れの級友がいた。長身の美少年、澄んだ目をして優しかった。彼の父親は大会社の重役で、母親は大柄な美女だった。私たちは親友同士。二人でよく語らい遊んだ。淡路島のお母さんの実家に招かれて、二人で神戸港から洲本まで船で行ったとき、夜の甲板で星を見ながら、「宇宙の無限」について時を忘れて語り合った。わがハンス・ハンゼン君の<存在>は、ともすれば崩折れそうになる私の心をよく支えてくれた。

別々の大学に進んでからしばらく続いていた手紙のやり取りはいつの間にか途絶えた。数年前に同窓会報に偶然ハンス・ハンゼン君の訃報を発見した。むしょうに寂しかった。

同じ学年にインゲボルク・ホルムもいたが、遠目に見るばかりでついにことばを交わすこともなかった。

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