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2010年6月

2010年6月28日 (月)

ヴェランダ菜園

ヴェランダ菜園は「目と手で楽しみ、夢を食する」ものなどと悟った境地でいた。ところが、植木市で買った青紫蘇(大葉)がどんどん大きくなって、一枚の葉が大人の手のひらをすっぽりと覆うくらいの大きさになった。鰹のたたきに巻いて、手巻き寿司にして食したこの大葉、香りも歯ごたえも十分。「野趣」とはこのことだ。

スーパーで買う大葉は大きさが揃っていて柔らかい。「大きすぎて不揃いなものは、商品として出荷できないんですよ」という生産者の嘆き(無念)の声が聞こえてきそうだ。人間なら<規格ハズレ>は才能であったり愛嬌であったりするのに。

野菜も<生きもの>なのだから、ひとつひとつ個性がありクセがある。そんな個性やクセが大切な味わいになるのに、と思う。

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わが家のヴェランダでは今、<ひね茄子>、<ひねトマト>が大きくなってきた。この子どもたちは、育て親(私)の背中を見て育っているから本当の<ひね>かもしれない。

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2010年6月27日 (日)

晴苗(はるな)さんのやさい市

このごろ日曜日の朝は空模様が気になるようになった。雨だと晴苗さんのやさい市が中止になるからだ。今日は夜来の雨も上がり、曇り空ながら「これなら晴苗さんのやさい市も大丈夫」と、箕面に向かっていそいそと出発した。

箕面駅近くのカフェ「サルンポク」さんのテラスで開かれるささやかなやさい市。晴苗さんが女手ひとつで土と格闘しながら育てて、今朝収穫したばかりの野菜は品数はそんなに多くはないが、どの野菜にも晴苗さんの熱意に応えようとする「けなげさ」のようなものが感じられて嬉しい。

晴苗さんの野菜には「力があるから、どんなふうに料理してもおいしい」というのが家内の評だが、「力がある」というのは<言いえて妙>だ。味にも、舌ざわり歯ざわりにも力があって、食べるたびに力をもらうような気がする。

晴苗さんは、能勢の地で有機農法に取り組んでいる若い女性のチャレンジャーだ。各種の野菜作りから最近はハチミツ作りにまでチャレンジしておられる。チャレンジャーなどというとつい猛者(もさ)を想像してしまうが、晴苗さんはいたって静かな印象の人だ。自然と仲よく付き合って行くには、強さだけではなくて、<優しいしなやかさ>が大切なのだろうと、晴苗さんを見ていて思う。

箕面まで千里川ぞい約2.5キロ、往復5キロの道のりは、足には重いが、心には軽い。鳥たち、花たち、そして晴苗さんが背中を押してくれる。今日ははじめてツバメの姿をカメラに収めた。

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晴苗さんのブログ「べじたぶる ♪ ふぁいん 晴苗農園」には、彼女が育てている野菜たち、田畑で出会った生き物たち、能勢の四季折々の風景が美しい写真で紹介されている。見ていると、彼女の農業への熱い思いがひしひしと伝わってくる。ブログを覗くたびに、身近にまだこんな世界があるのか、という驚きと喜びと安堵を感じる。

2010年6月26日 (土)

ミルテ(ギンバイカ)

通りすがりのお宅の庭に、ミルテの花が咲いているのを見つけた。ミルテは、銀梅花(ぎんばいか)とも天人花(てんにんか)とも訳されているが、古代地中海世界を代表する花木だったらしい。

ギリシア神話では美の女神アフロディーテが海の泡から生まれたとき、その頭に海神ネレウスがミルテの枝を編んだ冠をかぶせた。陸に上がったアフロディーテは輝く裸身をミルテの茂みに潜めたのだった。

古代ローマ人はミルテの芳香をとりわけ好んだ。ミルテはヴィーナスの神木とされ、ヴィーナスの神殿はミルテの森に取り囲まれていた。ミルテは美と愛と純潔の象徴とされた。

一方、常緑のミルテは不死性(不滅)の象徴であり、また<死と復活>の象徴でもあった。古代の人々は墓にミルテの枝を巻きつけた。

ミルテは日本ではまだなじみのうすい花木だが、多くの人たちが、『君よ知るや 南の国』でイタリアを象徴する木として登場しているのを知っていることだろう。私たちの世代は中学国語の教科書で鴎外訳『ミニヨンの歌』を習ったが、今はどうだろう?

「レモン」の木は花さきくらき林の中に / こがね色したる柑子は枝もたわわにみのり / 青く晴れし空よりしづやかに風吹き / 「ミルテ」の木はしづかに「ラウレル」の木は高く / くもにそびえて立てる国をしるやかなたへ / 君と共にゆかまし (鴎外訳 『ミニヨンの歌』)

近よってミルテの匂いに触れてみたい。

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2010年6月22日 (火)

泰山木

「泰」の字は、<大+手+水>、即ち「両手でたっぷりと水を流す」ことを表す会意・形声文字で、「おおらかでゆったりしている」という意味だそうだ。(藤堂明保編『漢和大事典』)

今、泰山木の花が咲いている。その名にふさわしく「おおらかでゆったりとした」純白の花だ。柑橘系のすがすがしい匂いがする。

高い梢の上に咲いていると、まるで空中にぽっかり浮かんだ蓮の花のようだ。開ききると黄色い花芯(柱頭)が顔をのぞかせる。花弁はあっという間に黄変して地面に落ちる。すると、むき出しになった花芯の根元が赤みを帯びているのがわかる。

それもやがて落ちる。落ちた花芯は、理髪店で鬚(ひげ)を剃るときのシャボンの刷毛(はけ)みたいな形をしていて、子どものころ拾って遊んだ。肌に触れたときの棘状の突起の硬い感触が、今も甦って来る。

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2010年6月21日 (月)

カルガモのファッション

カモ類はみんな北へ去ったとばかり思っていたが、昨日、千里川で久しぶりにカルガモの姿を見た。うれしい再会だ。群れではなく一羽だけ、岸の石の上に佇んできょろきょろあたりを見回していた。。移動中に群れからはぐれたのだろうか。

いつも水の中につかっているところしか見たことがなかったものだから、カルガモの足はこんなにも鮮やかな朱色だったのかと今さらのように驚いた。嘴の先端の黄色、風切り羽の青、そして足の朱色。ポイント・カラーが効いていて、カルガモのファッション、「これはなかなかだぞ」と感心した。

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2010年6月17日 (木)

オハグロトンボ

昨日と今日と梅雨の晴れ間の真夏日。強い陽ざしを浴びながら、牧落のパン屋さん<アビアント>まで歩いて往復した。パンを買うためだけではない。道中で待ち受けているささやかな出会いが、何よりの楽しみだ。

今日は千里川の岸の茂みに「オハグロトンボ」を見つけた。正しい和名は「ハグロトンボ」らしい。(家内は子どもの頃「カラストンボ」と呼んでいたというが、私にその記憶はない。)最近はめったに見かけなくなっていたので、懐かしかった。

そして、足もとに「ヘビ苺」。子どもの頃、畑のヘリの石積みの隙間に「ヘビ苺」を見つけると、何だか豊かな気持ちになったものだ。「お店で買わなくても、ほら自然の中にこんなにたくさん苺があるんだぞ」と、苺摘みを空想した。「苺を食べているヘビなら怖くない」、そんな気もした。

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2010年6月14日 (月)

ボリジの花 青い空の星

植木市から買ってきたときには10センチばかりの苗だったボリジ(和名るりぢさ)が1月もたたないうちに60センチの高さになり、今日は青い花を咲かせた。ヨーロッパ中世の画家たちが聖母マリアの衣装を描くときには、この花の汁を用いて描いたという美しい青(マドンナ・ブルー)である。(ドイツでは、その青を愛でて「青い空の星(Himmelblaustern)」とも言うらしい。)

古代ローマの大博物学者プリニウスによれば、ホメロスが『オデュッセイア』第4歌で「悲しみも怒りも消し、あらゆる苦悩を忘れさせる秘薬であった。(これを)酒に混ぜて飲む者は、たとえ父母の死に遭おうとも、また面前で兄弟またはわが息子を刃物で殺されて、目の当りそれを見ようとも、その日のうちは頬を涙で濡らすことが絶えてない」と歌ったのは、ボリジの花だという。

ちなみに、岩波文庫の注釈では、この秘薬は「阿片であろうと推定する説が有力である」とも記されているが、いずれにせよ、まことに恐るべき薬効である。こんなハーブをわが家のベランダで育てていることにおののきを覚えるくらいだ。

こう書けば、警察の家宅捜査が入ってもおかしくないところだが、ドイツでは「快活花」(Wohlgemutsblume)とか、「胡瓜草」(Gurkenkraut)とも言うらしいから、「まあ、いっか!」

葉はキュウリの味がしてサラダにすると美味しい、花びらはワインやレモンティーに浮かべるとピンクに変化して可憐とか。

今はまだ本から得た知識ばかりだが、必ずや自分の舌と目で験(ため)した体験を記すことにしよう。

Borage

2010年6月13日 (日)

「あたりをつける」ということ

シモツケの花の記事で、図鑑やネットでの検索の難しさに触れたら、いつも才知あふれる温かいコメントを下さるおじゃままさんが「あたりをつける」ということばを思い出させて下さった。

「あたりをつける」とは「見当(狙い)をつける」と言い換えられそうだが、「あたりをつける」の方が、体験に即した「身についた」表現のような気がする。

「あたりをつける」の「あたり」は、「ぴたりと的中する」「ぶつかる」という意味の<当り>から来ているのか、あるいは「おおよその所・時・数」を表す<辺り>から来ているのか、どっちだろう。前者だとは思うが、決め付けられないところが面白い。

一見反対方向を向いている二つのことばは、『岩波古語辞典』によれば、同じ語根<あた>から派生しているそうだ。<あた>は「アタ(敵・仇)、アタヒ(値)、アタヘ(与)などのアタ」で、どうやら正面に向き合っている対象(の中心)を表しているようだ

一方、<辺り>の<り>は、「ほとり」、「へり」の<り>で「方向をいう接尾語」。つまり、「狙っている対象がありそうな方向」が<あたり>ということになる。

そうなると、「あたり」ということばは、「ぴたり」と「おおよそ」という相反する意味をはっきりと境界づけないままに含んでいることになる。この両義性を引きずっているところが、<あたりをつける>という表現の醍醐味なのではなかろうか。

釣り人は「あたりが来る」と言う。魚がつんつんと餌をつつく感触が手に伝わってくることだ。ここだと「あたりをつけて」糸を投げ、「あたりが来た」ときの喜びは検索作業でも同じだ。

今日は朝から雨もよい。午後から本降りになった。おかげでヴェランダのアジサイが一段と色鮮やかになった。

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2010年6月10日 (木)

シモツケの花

野畑図書館へ行く道すがら、ご近所の庭に咲いているのを見つけた。紅白の斑(ぶち)の花房。これも「源平咲き」と言うのだろうか?何の花だかわからないまま、あまりにきれいなのでカメラでパチリ。

「この花、何の花?」 こんなときどうやって調べたらいいのか、これは意外に難問。ネットで「白い花 潅木 6月」というキーワードだけでは、行き当たることができなかった。

ふと「シモツケの花に似ているかな」という気がして、「シモツケ」で検索した結果、これはやはりシモツケの花にちがいないという結論に達した。

それにしても、私の記憶にあるシモツケの花は全体が濃いピンクで、どちらかというと野趣のあるたたずまい。

最近は思わぬ新(園芸)品種が次々と登場するから、記憶(ときに先入見)だけに頼ると間違うし、かといって記憶がなければ途方にくれてしまう。

これから、このきれいな赤が花房の全体に広がってゆくのか、あるいはこのままなのか、楽しみに眺めていたい。

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2010年6月 9日 (水)

ムクドリの水浴び

千里川沿いを散歩していて、めずらしい光景に出くわした。夏らしい陽ざしが照りつける正午頃、ムクドリたちが水浴びをしていた。カラスの行水はよく見かけるが、ムクドリたちの行水は面白かった。ピュルピュルと弾けるように鳴きながら、全身びしょぬれ。気持ちよさそうだ。ムクドリも「童心に帰る」のかしらん?

ムクドリはもの怖じしない愛嬌者だ。歩行者の面前を、何と右足と左足を交互に出して(人間にとっては当たり前だが小鳥ではそうではない)、大股で、顔を上げて堂々と横切ってゆく。

そのムクドリたち、最近は大群で都市部に姿を現すようになって、ところによっては「ムクドリさよなら大作戦」なるものまで展開されているそうだ。ヒトとイキモノたちとの共生は、口で言うほどたやすくはない。それでも水浴びしてはしゃぐムクドリの姿を見ていると、「負けるな一茶ここにあり」という気になる。

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2010年6月 8日 (火)

オクシペタルム、またはほんとうの空色

絵を描くことが大好きな少年ファルコーは、友だちのカリに貸してもらった青の絵の具をネズミに食べられてしまう。ファルコーのお父さんは死んで、お母さんはびんぼうな洗濯女だ。カリに「返せ」と迫られても、返す手立てはない。そんなとき、用務員のおじさんが青い花のことを教えてくれた。その花の青い汁で空を描いた。すると、その空には太陽や星や月が輝き、雲が浮かび、稲妻が走り、夕立が降る。そんな不思議な青い花の名前は、<ほんとうの空色>。

昨日、千里中央の植木市で買った鉢植えの花。フェルト生地のような厚ぼったい感じの5弁の花びらは、青と呼んでもブルーと呼んでも違う、ほんとうの空色。ハンガリーの作家バラージュ=ベラの童話(ファンタジー)『ほんとうの空色』を思い出しながら、今日は痛い腰をさすりさすり、それでもいそいそと大き目の鉢に植え替えた。

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2010年6月 7日 (月)

ゾーヴァの箱舟

注文していたミヒャエル・ゾーヴァ(Michael Sowa)の画集『ゾーヴァの箱舟(Arche Sowa)』が届いた。ゾーヴァのいろんな絵本から取ってきた55枚の絵は、どれも不思議な魅力に満ちている。何だか哀しくて、何だか可笑しくて、少しグロテスクで、おおいに謎めいている。

ゾーヴァは1945年生まれのドイツの絵本作家(または挿し絵画家)。『ちいさなちいさな王様(Der kleine Koenig Dezember)』以来、私は彼の絵のファンだ。ゾーヴァの絵は見ても見ても、見飽きることがない。というより、見ているうちに頭がぼんやりしてきて、いつの間にか時間が経ってしまう。まるで「時間泥棒」みたい。

多くの絵には、おもく雲の垂れ込めた(北ドイツらしき?)風景の中に、ブタやニワトリやイヌやヒトの不思議な<たたずまい>が描かれている。風景は、木の葉の一枚一枚、雲の一片一片、砕け散る水しぶきの一粒一粒まで、細密画のようにリアルに描き込まれていて、空気の重さが見る者の膚に直接触れてくるようだ。

そして、一枚の絵に描かれているすべては、ヒトもトリもケモノもモノも、どれもがお互いに対してそっけないほど無関心だ。絵を見ている者に対しても。

<今、ここに、こうしてあるだけ>。今という時間が、過去からも未来からもきれいさっぱりと切り離され、どんな来歴(いわく因縁)、どんな主義・主張も語りかけてこない。描かれているすべてのものの間に、価値のどんなヒエラルキー(位階秩序)も存在しない。

それでいて、一切のものが<今、ここに、こうしてある>ことの<かけがえのなさ>、<おかしさ>、<哀しさ>、<せつなさ>を黙って惻々と語りかけてくる。

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2010年6月 6日 (日)

栴檀の花

おじゃままさんの「裏の杜」では、栴檀の花が散り始めたそうだ。今年の初め、千里川の岸の栴檀の大木が伐られたことを、このブログに書いた。赤い木目を痛々しく外気に晒していたその切り株も、雨に打たれていつか朽葉色になり、今は草に覆われて目立たなくなった。

今年はもう栴檀の花を見ることはできまいと思っていたが、何とベランダの向かいの梨谷池の岸に、栴檀の大きな木があることに今年になって気がついた。迂闊といえば迂闊な話だが、これまで気がつかなかったのはなぜだろうと考えると、栴檀の木の方から声をかけてくれたような気がする。

その木が、5月の中ごろから目立たないが、端正な薄紫の花を咲かせている。

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2010年6月 3日 (木)

カワウ

いつもはカメがのんびりと甲羅干しをしている石のうえに、今日はカワウが居座ってあたりを睥睨(へいげい)していた。このカワウは、たぶん群れからはぐれて、この千里川に居ついてしまったのだ。この一羽だけが、去年の暮れ頃から千里川の川筋を上流から下流へ、そしてまた下流から上流へと移動しながらひとり暮らしをしている。

目の周りから嘴(くちばし)の基部にかけて鮮やかな黄色、深い眼窩の奥から突き出ているような目は、虹彩がグリーン、瞳は小さな黒点。下向きに鋭く曲がった鉤爪(かぎづめ)状の嘴。圧巻は巨大な水掻き。

カワウは潜水が得意で、いったん潜るとしばし水中に姿を没して、やおら十メートルほども離れた場所にひょっこりと顔を出す。カワウの怪異な姿は、水底の闇が生んだものだ。

はじめのうちはカワウの不気味なご面相にいささか辟易(へきえき)もし、少しばかり怖気(おじけ)づいてもいたが、最近は見慣れてきたのか親しみが持てるようになってきた。

カワウがどう感じているのかはわからないが、その巨大過ぎる足(もしくは趾)がまるで足枷のようで、それを見ていると<生きていることの悲しみ>みたいなものが伝わってくる。

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