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2009年10月24日 (土)

東尋坊のウンディーネ

吉田都の英国ロイヤルバレー『オンディーヌ』公演をテレビでちらっと見た。冒頭近く、渓流の水がさかんに滴り落ちる岩間の陰からオンディーヌの登場する場面、まるでせせらぎの水から今まさに生まれ出ようとしているかのように、オンディーヌのレースの衣裳が細やかに震え、それがやがて自在で流れるような動きに転じてゆく。日本人プリンシパルは繊細、しなやか、端正でほーっと息をつきたくなるように魅力的だった。こんなにも可憐なバレリーナに、オンディーヌの破壊的デーモンとしての側面を求めること自体、筋違いかもしれない。

むかし冬の東尋坊を訪れたとき、重く暗く垂れ込めた空のもと逆白波の立つ日本海を見ていると、背後の建物の蔭から「老いた狂女」が海の彼方をじっと眺めている気配がして何度も振り返った。

 海辺の老いた狂女はかつて美しい人魚だった。しかし人間の男に恋し、自ら念じて人の姿に変化(へんげ)した。陸に上がって男と夫婦になったものの、結局は男に棄てられた。一途な思いの激しさが男には担いきれなかったのだ。今となっては海に帰ることもかなわず、日がな沖を見て暮らしているのだという。

東尋坊で奇妙なリアリティーをもって迫ってきた「海辺の狂女」の幻想がどこから来たものか。たぶん、若狭小浜の「八百比丘尼(やおびくに)」の伝承が頭のどこかに残っていて、それが私の妄想と溶け合ったのだろう。八百比丘尼は、人魚の肉を誤って口にしたために八百年も生きることを宿命づけられた女の説話である。この説話には、凄みがある。

私の「気まぐれ伝説」はむしろ、古今東西のどこの海辺にもありそうな人魚伝説に基いているような気もするが、ひょっとするとヨーロッパのオンディーヌ(ウンディーネ)伝説(とくにドイツ・ローマン派の作家フケーの『水妖記』)が私の頭に住みついていたからかもしれない。

不用意に陸(文化)に上がってしまった私たち人間は、いつも海(自然)に帰りたい、魚になって海を自在に泳ぎまわりたいと願っているらしい。人間はその願いを「人魚」の姿に投影してきたのではないか。

少年の頃、魚(人魚)になってきらきら光る青い水の中を自由に泳ぎまわりながら<音のない音楽>を奏でている夢をよく見たものだ。今はそんな至福の夢から遠ざかって久しい。

東尋坊をいつか再訪して「海辺の狂える人魚」の気配を確かめてみたいと思っていたが、今はもう確かめるまでもあるまい。

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