« チェーホフの風景 その3 | トップページ | ランタ男 ―― ランタナと揚羽蝶 »

2009年10月 3日 (土)

チェーホフの風景 その4

最近ロシアへ旅されたAさんに、お土産としてロシアの主婦の手作りジャムというのを頂いた。リンゴとスモモとコケモモのようなベリーのミックスジャムで、甘みが強く野趣に富んだ味だった。Aさんのおっしゃるには、ルシアンティーはジャムをティーに入れるのではなくて、添えたジャムを舐めながらティーを飲むそうだ。ともかく、最近ゴーゴリ、ドストイェフスキー、トルストイ、チェーホフをはじめとするロシア小説を読むことが多いので、本場のジャムはロシアへの「ノスタルジア」をかき立てた。

ところでチェーホフの小説を読むと、彼には「食」へのこだわりが人一倍深かったように思える。丹念に描かれた飲食の情景のなかに、いつ果てることもなく繰り返される人間の日々の営みの「愉悦」と「苦(にが)さ」と「悲哀」と、そして人間の「いじらしさ」を見ていたのではないかという気がする。彼の小説では、居間や食堂のテーブルの上でサモワールが絶えずしゅんしゅんというかすかな音を立てている。その音がまるで作中人物たちの人生の通奏低音をなしているかのようだ。

『可愛い女』のオーレンカは、土曜日ごとに二度目の夫で木材商人のブストヴァーロフと夜祷会に、祭日には朝の弥撤(ミサ)に出かける。そんなとき、

「彼女の絹の衣裳がさらさらろ快い音を立てるのだった。さてわが家に帰るとお茶になって、味つきパンやいろんなジャムが出たあとで、仲よく肉まん(ピローグ)に舌つづみをうつ。毎日、お昼になると、中庭はもとより門の外の往来へまで、甜菜スープ(ボルシチ)だの羊や鴨の焼肉だののおいしそうな匂いが漂い、それが精進日だと魚料理の匂いにかわって、門前に差しかかる人は、食欲をそそられずに行き過ぎるわけにはいかなかった。」

田舎の小地主シューミン家(『いいなづけ』)では、主人公ナーヂャと兄妹のようにして育ったサーシャが、肺結核を病みモスクワから帰郷している。サーシャを愛(いつく)しんできた祖母は、彼に向かって、「一週間もわたしのところにいればすっかりよくなるよ、お前。ただ少しでもたくさんおあがり。おや何という顔をするんだろう」と言って溜息をつくのである。

「二時にみんなは午餐の席についた。ちょうど水曜日で精進日にあたっていたために、祖母には肉のはいらないボールシチとうぐい入りの麦がゆが出された。祖母をじらすために、サーシャは自分用の肉入りスープと肉なしボールシチの両方に手をつけた。食事のあいだじゅう彼はしきりに冗談を飛ばしたが、彼の冗談はきまって教訓的な含みを持った仰山なもので、それも洒落を言う前ぶれに例の長い、痩せた、死人のような指をあげて見せると、まるでおかしさが消えてなくなった。そしてふと、彼の病気がとても重く、もうあまり先が長くないのを思い出すと、聞き手の方では涙が出るほど彼が不憫でならなくなった。」

七月の土砂降りの朝モスクワに帰るサーシャの辻馬車に、ナーヂャは大きなトランクを持って乗り込んだ。結婚式を数日後に控えながら破談を決意し、勉強のためにペテルブルクへ旅立ったのだった。(下の図版は、サモワールのある農家の居間。)

Kruglikovalikbez

« チェーホフの風景 その3 | トップページ | ランタ男 ―― ランタナと揚羽蝶 »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1221163/31612008

この記事へのトラックバック一覧です: チェーホフの風景 その4:

« チェーホフの風景 その3 | トップページ | ランタ男 ―― ランタナと揚羽蝶 »

2017年7月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

星座 (リンク集)

無料ブログはココログ