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2009年10月11日 (日)

『荒野の呼び声』と『荒馬と女』

レイモンド・カーヴァーの短編『ぼくが電話をかけている場所』に、「ぼく」が入っているアルコール中毒療養所所長のフランク・マーティンが向かいの丘を指さして、「ジャック・ロンドンは昔、あの谷の向こうに広い土地を持っていた。君らの見ている緑の丘のちょうど向こう側だよ。でも彼はアルコールのおかげで死んだ。それを教訓にしなさい。彼は我々のうちの誰よりもすぐれた人間だった。しかし彼もまた酒を統御することができなかったんだよ。」

「あっそうだったんだ」と思い、「やっぱり」とも思った。代表作『荒野の呼び声』(『野生の呼び声』の方が正しいように思うが)に響く「呼び声」は、「アルコールの呼び声」でもあったのだ。もちろん揶揄的に言っているのではない。アメリカ文学、広くアメリカ文化の根本問題がそこに見え隠れしているからだ。

アメリカ文学の永遠のテーマである「<自由としての野生・暴力>へのあくなき回帰願望」は、「文明の病い」と表裏の関係をなしているように思われる。果敢なフロンティア精神(西部魂、アラスカ魂)の見せかけは、じつは「文明の罪障観念」の臆病な抑圧――そこにアル中の問題が潜んでいる――が被っている仮面ではないのか。

『荒野の呼び声」を読むと、われわれは奇妙な錯乱を覚える。主人公の犬バック(カリフォルニアのサンタクララの豪邸に飼われていたセントバーナードとシェパードの混血犬)は、犬泥棒に拉致されて苛烈な「棍棒と牙の掟」の下、アラスカの厳しい自然を生き抜いて、次第に野生に目覚めてゆく。しかし、束の間自分を慈しんでくれた飼い主ジョン・ソーントンのことを決して忘れない。ソーントンがイェハット族に殺されたあと、バックはイェハット族のキャンプを襲い、猟師の喉をむごたらしく噛み裂く。彼らから「白い悪魔」と恐れられたこのオオカミは、毎年夏になるとソーントンの殺された渓谷を訪れて、「しばし思いにふけったあと、ひと声、長く悲しげに吠えて立ち去る」のである。

バックは「文明の野生化」なのか、「野生の文明化」なのか。多分、「文明の内なる野生(暴力)」が抱え込んだ「癒しがたい悲しみ」とでも言うべきではなかろうか。そして同じ悲しみを抱え込んだ作者ロンドンは、そこからアルコールへと逃れたのではなかったか。

ジョン・ヒューストン監督の映画『荒馬と女』でクラーク・ゲーブル演じる老カウボーイは野生と男らしさ(あるいは暴力、力)とアルコールに溺れるアメリカ映画のヒーローである。野生馬を捕獲するシーンをスタントなしで演じたゲーブルだったが、それが彼の遺作となったのは示唆的だ。

「アメリカ文学とアルコール」については森岡裕一氏のすぐれた研究があることを付言しておく。

酔いどれアメリカ文学―アルコール文学文化論

 荒野の呼び声

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