« チェーホフの風景 その1 | トップページ | チェーホフの風景 その3 »

2009年10月 2日 (金)

チェーホフの風景 その2

チェーホフのたくさんの小説のなかで、晩年の『中二階のある家』、『可愛い女』、『犬を連れた奥さん』、『いいなづけ』が、私は特に好きだ。

『中二階のある家』のジェーニャ、『可愛い女』のオーレンカ、『犬を連れた奥さん』のアンナ・セルゲーヴナ、そして『いいなづけ』のナーヂャ。どの女性の面影もその名とともに忘れがたい。

「うら淋しい八月の夜だった。(・・・)紫色の雲にとざされて月がさしのぼり、道や、道の両側のくろぐろとした秋蒔きの畑を、かすかに照らしていた。流れ星が多かった。ジェーニャはわたしとならんで道を歩きながら、つとめて空を見ないようにしていた。流れ星がなぜか心をおびえさせるので、見ぬようにしているのだった。」(『中二階のある家』)

「彼女はしょっちゅう誰かしら好きでたまらない人があって、それなしではいられない女だった。(・・・)物静かな、気だてのやさしい娘さんで、柔和なおだやかな眸をして、はちきれんばかりに健康だった。そのぼってりした薔薇いろの頬や、黒いほくろが一つポツリとついている柔らかな白い頸すじや、何か愉快な話を聴くときよくその顔に浮かび出る善良なあどけない微笑(・・・)。」(『可愛い女』)

「海がしけたので船はおくれて、日が沈んでからやっとはいって来た。そして、波止場に横着けになる前に、向きを変えるのに長いことかかった。アンナ・セルゲーヴナは柄付眼鏡(ロルネット)をあてがって、知り人を探しでもするような様子で船や船客を眺めていたが、やがてグーロフに向かって物を言いかけたとき、その眼はきらきらと光っていた。彼女はひどくお喋りになって、突拍子もない質問を次から次へと浴びせかけ、現に自分が訊いたことをすぐに忘れてしまった。それから人ごみの中に眼鏡をなくした。」(『犬を連れた奥さん』)

とりわけチェーホフ最後の小説『いいなづけ』は、主人公ナーヂャに対するチェーホフの愛情が素直に細やかに表現されていて、心を打つ。ナーヂャは二十三才、十六の年から結婚を夢見てきて、二月後の七月七日に婚礼を控えている。それなのに、ナーヂャは心がはずまない。

「庭はひっそりとして肌寒く、暗いもの静かな影が地面に落ちていた。どこか遠い、ずっと向こうの町はずれのあたりでかえるの鳴き交わす声が聞こえた。五月が、いとしい五月が感じられる!思わず吸う息が深くなり、この庭先ではなくどこか遠い空の下、木立の上に、町を遠くはなれた野原や森かげに、今この瞬間、弱い罪にけがれた人間にはわからない神秘的な、うるわしい、豊かで清らかな春の生活(いとなみ)が、さっと広がったのではないかと思いたくなる。そして、なぜか、泣きたいような気がしてきた。」

「台所のある地階からは、人々がせわしげに行き来する足音や、包丁のとんとんという音、ドアがばたんばたんと鳴る音(・・・)が聞こえ、七面鳥を焼く匂いや酢漬けの桜ん坊の匂いがただよっていた。そうしてなぜか、こんなふうなことが一生涯、いつはてるともなく、このまま続いてゆくのではないかという気がしてきた。」

兄妹同様に育ち、婚約の破棄とペテルブルクへの留学を励ましてくれたサーシャ。一年後、郷里に戻ったナーヂャはサーシャの死を知らせる電報を受け取った。

「『さようなら、なつかしいサーシャ!』と彼女は心のなかで思った。(・・・)彼女は自分の部屋へあがって、荷物をまとめた。そしてあくる日の朝、身うちの人々に別れを告げて、生き生きとした晴れやかな気持ちで町を去った。――二度と帰るまいと思いながら。」(『いいなづけ』)

Photo_2

« チェーホフの風景 その1 | トップページ | チェーホフの風景 その3 »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1221163/31596699

この記事へのトラックバック一覧です: チェーホフの風景 その2:

« チェーホフの風景 その1 | トップページ | チェーホフの風景 その3 »

2017年7月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

星座 (リンク集)

無料ブログはココログ