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2009年10月10日 (土)

ホタル

秋も急勾配に深まってゆくこの季節にいまさらホタルでもあるまいという気もするが、このごろブログ記事を書いていると、自分がまるで中空に浮かび漂っているホタルを捕らえ両掌の隙間に遊ばせて、指の間からもれる光をじっと見つめているみたいに思えて、ふと

 もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂(たま)かとぞ見る

という和泉式部の歌を思い出した。私のホタルも「わが身よりあくがれいづる魂」の一種なのだろうか。

では「もの思ふ」とは何か。大野晋「モノとは何か――ものがたり、もののあわれの意味」というすぐれた研究(『語学と文学の間』 岩波書店 2006年 所収)がある。私たち日本人の心の歴史を考える上で、欠かすことのできない文献だ。

大野氏は「モノとは個人の力では変えることのできない『不可変性』を核とする。(・・・) 具体的には社会の規制・規定のことであり、儀式・行事の運用であり、人生の成り行き、あるいは運命、あるいは道理、また忘れがたい、動かしがたい事実などでもある。今日では、一般にモノといえばまず物体を意味すると思われているが、それは物体も不可変な存在であると見た」からであると書いておられる。

したがって「もの思ふ」とは、一般に受け取られているように「何となく思うこと」ではない。モノとは「自分の過去の記憶の中にある忘れられない事実」をさすことばであり、「もの思ふ」とは「人の世の定めのあわれさ」、「過ぎ去った逢瀬と別れ、その取り返しのつかなさ」を思うことなのである。

「もののあわれ」が、とりわけ「男と女の出会いと別れのあわれさ」を意味するようになったのは、平安中期以降、『源氏物語』に拠るところが大きい。同時代の和泉式部の和歌もそれに与り、日本人の心の歴史に艶な色彩を添えてきた。

とはいえ、「取り返しがつかない」のは男女の仲だけではない。齢(よわい)を重ねるとは、「取り返しのつかない」ことを積み上げてゆくプロセスだ。過去の「取り返しのつかなさ」に気づくとき、魂は「あくがれ」て、つまり身体という本来の居場所を離れてホタルのように中空に漂い出てゆく。

終戦直前南洋のどこかの島でアメリカ軍の総攻撃を待ち受ける夜、青く光る木が闇に浮かび上がる幻想的な光景を見た何人かの日本兵がいた。じつは無数のホタルが群がって光るマングローブの木だったらしいが、ひょっとするとおびただしい戦死者の魂が群がる「ホタルの木」だったのかもしれない、と私にはそんな気がする。

語学と文学の間 (岩波現代文庫)

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