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2009年10月

2009年10月29日 (木)

指切り げんまん

子どものころ、相手の小指に自分の小指をからませて「指切りげんまん 嘘ついたら針千本飲まそ 指切った」と言って約束(あるいは仲直り)の履行をお互いに確認しあったものだった。

考えてみれば「指を切る」とは穏やかでない。任侠の世界では「指を詰める」(落とし前をつける)という儀礼がある。またまた『大阪ことば事典』にお伺いを立てれば、「もとは男女が互いに変わらぬという堅い契りの証しとして、小指を小刀で切って示しあったことからでたもの」とある。これは遊郭の仕来りだろう。

「指切り」は、ひょっとすると武家の作法に発するものだろうか?それがいつしか一般市民に模倣され、「任侠」や「遊郭」の世界に下りてきて、そのうち「ことばの身振り」として子どもの世界にまで広まったのだろう。

それにしても「げんまん」とは何か?「拳万」の字を当て、破約があれば「拳を万と降らせる」というのが語源だとするものが多い。少し牽強付会の感を否めないがどうだろう。日本民謡のお囃子のようなものではないか。

いずれにしろ、「指切りげんまん」は身振りを伴ったことばだということを考えると、「げんまん」にはおそらく最初は<拳と拳を打ち合わせるような所作>が伴っていたのではないか。<――n――n>の表現には、強いリズムによって人を有無を言わせず納得させる力がある。「かんじんかなめ」「いかんせん」「ばんぜんを期す」などなど。

子どもはことばの音響的な、つまり身体的な要素に大人よりずっと敏感に反応するものである。分別で、ことばを切り分けるようなことはしないからだ。飛躍するが、子どもには「聖」(=精神、文化)と「俗」(=肉体、野生)の切り分けはない。「聖」の世界に対しても「俗」の世界に対してもあっけらかんと開かれている。子どもは、あどけなく残酷である。

「落葉焚き」の季節が来ると、山茶花の花が咲く。

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2009年10月25日 (日)

「けったい」な大阪人

大阪弁の「けったい」については、牧村史陽編『大阪ことば事典』には「妙な・変な・変てこな・おかしな・奇態な・いやな・不思議な等、いろいろの意味を含んだ実にケッタイな言葉であって、エゲツナイとともに、上方弁の両横綱といってよい」とある。

疲れたとき首筋を回すと、プチプチプチプチッと音がする。「あー疲れてるんやな」と思いながら、その音とともに疲れが少しだけ発散してゆくのを感じる。、「けったい」という「ことば」には、そんな関節の軋み音みたいに何やら耳障りで滑稽で、それでいて私たちの身体に馴染む心地よい響きがある。こんな「けったい」な語、そして「けったい」な奴も今や京阪神の市民生活に広く深く根を下ろしている。

「けったい」の語源は私など「蹴りたい、蹴ったりたい」の略かなと<迷解>に考えていたが、<学術的な>諸説があるようだ。『大言海』によれば、「希代の転(希有)。京畿にては、キを、ケといふ。狐をケツネと云ひ、出来るをデケルなどと云ふ」らしい。『広辞苑』では、「ケタイ(卦体)の転」とある。卦体とは易の卦に現われた算木の様子、占いの結果。「卦体が悪い」は「縁起が悪い」の意で、そこから転じて「けたいな」は「いまいましい、いやな感じである」となる。

この「いまいましい、いやな感じ」をはらりと受け止めて、相手の力で相撲を取るのが大阪人の流儀である。

『大阪ことば事典』は次のような用例を挙げて、うぶな男に恋の手ほどきをしている。(この『事典』はほんまにケッタイな事典です。)

「<ケッタイな人!>と若い女性から言われたら、常識を逸した男という意味にもなり、いやらしい人、助平ともなる。しかし、求愛などの場合に<ケッタイな人>と軽くあしらわれるようなこともあって、そんな時にはまだ脈があるかも知れず、その場の空気によって的確な判断が必要である。」

「ケッタイな」と言われて、ゆめ本気で腹を立てることはない。「ケッタクソワルーッ(癪に障る)」と笑って軽くいなし、やおら遠い眼差しになるのが大阪人である。

下の写真は梅田茶屋町の「けったい」な「歯神社」。

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2009年10月24日 (土)

東尋坊のウンディーネ

吉田都の英国ロイヤルバレー『オンディーヌ』公演をテレビでちらっと見た。冒頭近く、渓流の水がさかんに滴り落ちる岩間の陰からオンディーヌの登場する場面、まるでせせらぎの水から今まさに生まれ出ようとしているかのように、オンディーヌのレースの衣裳が細やかに震え、それがやがて自在で流れるような動きに転じてゆく。日本人プリンシパルは繊細、しなやか、端正でほーっと息をつきたくなるように魅力的だった。こんなにも可憐なバレリーナに、オンディーヌの破壊的デーモンとしての側面を求めること自体、筋違いかもしれない。

むかし冬の東尋坊を訪れたとき、重く暗く垂れ込めた空のもと逆白波の立つ日本海を見ていると、背後の建物の蔭から「老いた狂女」が海の彼方をじっと眺めている気配がして何度も振り返った。

 海辺の老いた狂女はかつて美しい人魚だった。しかし人間の男に恋し、自ら念じて人の姿に変化(へんげ)した。陸に上がって男と夫婦になったものの、結局は男に棄てられた。一途な思いの激しさが男には担いきれなかったのだ。今となっては海に帰ることもかなわず、日がな沖を見て暮らしているのだという。

東尋坊で奇妙なリアリティーをもって迫ってきた「海辺の狂女」の幻想がどこから来たものか。たぶん、若狭小浜の「八百比丘尼(やおびくに)」の伝承が頭のどこかに残っていて、それが私の妄想と溶け合ったのだろう。八百比丘尼は、人魚の肉を誤って口にしたために八百年も生きることを宿命づけられた女の説話である。この説話には、凄みがある。

私の「気まぐれ伝説」はむしろ、古今東西のどこの海辺にもありそうな人魚伝説に基いているような気もするが、ひょっとするとヨーロッパのオンディーヌ(ウンディーネ)伝説(とくにドイツ・ローマン派の作家フケーの『水妖記』)が私の頭に住みついていたからかもしれない。

不用意に陸(文化)に上がってしまった私たち人間は、いつも海(自然)に帰りたい、魚になって海を自在に泳ぎまわりたいと願っているらしい。人間はその願いを「人魚」の姿に投影してきたのではないか。

少年の頃、魚(人魚)になってきらきら光る青い水の中を自由に泳ぎまわりながら<音のない音楽>を奏でている夢をよく見たものだ。今はそんな至福の夢から遠ざかって久しい。

東尋坊をいつか再訪して「海辺の狂える人魚」の気配を確かめてみたいと思っていたが、今はもう確かめるまでもあるまい。

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2009年10月23日 (金)

錦秋(きんしゅう)

私は「朝日に染まる桜」よりも「秋の夕日に照り映える紅葉」の方がずっと好きだ。

「秋の夕日に照る山もみじ」という小学唱歌は、高野辰之作詞、岡野貞一作曲で明治44年(1911)に発表されたそうだが、私の小学校時代はまだまだヒットソング(?)の位置を保っていた。音楽の授業でも習った。この歌を知らない日本人など当時誰一人いなかったはずだ。今はどうなっているのだろう?それにしても、小学唱歌といわれるものの「不思議な生命力」には驚かされる。日本人の歴史と人格の基底に触れているからだろう。

この歌(『紅葉』という表題らしい)が好きという人は、私より前の世代、同世代((昭和前期生まれ)にはきっと多いのではなかろうか。私も、もっとも好きな唱歌の一つである。これを口ずさむと、体の内側にほのかな温もりを感じる。

十月半ばから十一月末にかけてのこの季節、足早にたそがれてゆく夕刻になると、足もとから冷えが這い上がってくる。小学生の私は、一方では「家恋し」の気持ちに駆り立てられながら、他方では裸電球のもとでの寒々しい食卓の風景を脳裏から振り払いたかった。あまり家に帰りたくなかった。貧しかった。そして子供なりに、その貧しさに引き裂かれていたのだった。私たち同世代の少なからずが共有する体験だろう。

夕日に照らされて鬱金(うこん)色に輝く紅葉の山肌を切ない気持ちで眺めながら、空気に残るほのかな温もりにいつまでも浸っていたかった。私はほとんど意味もなく、地面に散りしいたサクラやイチョウ、カエデやケヤキの落葉、クヌギやカシのどんぐりを拾い集めポケットをいっぱいにした。

今もその感覚が残っていて、色鮮やかな落葉を見つけると、何枚も何枚も拾い集めて家に持ち帰る。そして、色彩のグラデーションにいつまでも見入っている。

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2009年10月22日 (木)

ダイサギ

これは鳥類図鑑によれば、ダイサギらしい。わが家のベランダからお向かいの梨谷池の岸辺のクヌギに止まっているのを撮った。目の周りと長い嘴(くちばし)の黄色が印象的だ。ちょっと「怒っているような感じ」もあるが、それは当方の不機嫌がダイサギに投影されているのだ。

 動物園に行くたびに思い深まれる 鶴は怒りているにあらずや(伊藤一彦)

私の好きな歌の一つだが、「怒りを深めている」のはまちがいなく伊藤さんのような気がする。しかし、私はそんな怒りに連帯したくなる。鶴にしてみれば、「それって、人間の勝手でしょ」。

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2009年10月21日 (水)

ニコライ・ゴーゴリ 『外套』

ゴーゴリの中篇小説『外套』を読んだことのある者は、物語の筋の細部を忘れても、主人公である貧乏小役人の名前がアカーキー・アカーキエヴィッチ・バシマチキンであることは、決して忘れないであろう。

最近『外套』を久しぶりに読み直してみて、作品の冒頭にその名の由来が縷々述べられていることを改めて確認した。バシマチキンという姓は、短靴(バシマク)に由来することは明らかだが、一族はみながみな長靴を履いていたのである。彼の名はアカーキー・アカーキエヴィッチといったが、「読者はこの名前をいささか奇妙なわざとらしいものに思われるかもしれない」と作者は書いている。

ロシア語にはまったく無知な私には、アカーキー・アカーキエヴィッチという名の響きそのものが何か悲鳴にきこえてしかたがない。

「彼は手渡された書類を書き写すという職務に熱愛を持っていた。「彼にはこの写字という仕事の中に、千変万化の、楽しい一種の世界が見えていたのである。彼の顔には、いつも喜びの色が浮かんでいた。ある種の文字にいたっては非常なお気に入りで、そういう文字にでくわすというと、もう我を忘れてしまい、にやにや笑ったりめくばせしたり、おまけに唇まで手伝いに引っ張り出すので、その顔さえ見ていれば、彼のペンが書き表しているあらゆる文字を一々読みとることできそうであった。」

「(同僚や下僚から)いろんなうるさい邪魔をされながらも、彼はただの一つも書類に書きそこないをしなかった。ただあまりいたずらが過ぎたり、仕事をさせまいとして肘を突っついたりされる時だけ、彼は初めて口を開くのである。『かまわないで下さい!何だってそんなに人を馬鹿にするんです?』それにしても彼の言葉とその音声には、一種異様な響きがあった、つい最近任命されたばかりの若い男など、見様見真似で、ふと彼をからかおうとしたけれど、胸を突かれたように、急にそれを中止したほどで、それ以来この若者の目には、あたかもすべてが一変して、前とは全然別なものに見えるようになったくらいである。」

上の引用のいくつかの語に私がなぜ下線を付したかについては、ウラジーミル・ナボコフの『ニコライ・ゴーゴリ』をぜひ読んでもらいたい。

「ゴーゴリの中篇を創造的な眼で読む読者は、一見何の他意もなさそうななさそうな描写箇所のそこかしこに、あれこれの言葉――時としてほんの一語の副詞ないし前置詞、たとえば「でさえ」とか「殆ど」といった語――が挿入されている結果、無害な文が絢爛たる悪夢の火花を散らしているのを発見する。(・・・)曲がり角の向こうにいつでもなにか滑稽な、それでいて星のようにきらめくなにかが潜んでいるという感じを抱かせ、人は事物のコミックな側面とコスミックな側面の相違は、一つの歯擦音のあるなしにすぎないことを今更のように思っては楽しむのである。」

ニコライ・ゴーゴリ (平凡社ライブラリー) ニコライ・ゴーゴリ (平凡社ライブラリー)

著者:ウラジーミル ナボコフ
販売元:平凡社
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2009年10月18日 (日)

満山紅柿(まんざんべにがき)

十年ばかり前のことだが、弁天町のシネ・ヌーヴォで小川伸介監督の映画『満山紅柿』を見た。山形県蔵王連山の麓(ふもと)上山地区の「紅吊るし柿」作りの工程を、小川監督が1984年から1992年に亡くなるまで撮り続けた5時間半のフィルムを、中国の女性監督彭小蓮(ペン・シャオリン)が追加撮影し完成させたドキュメンタリーである。

『満山紅柿』のタイトルに惹かれ、満山に紅柿が照り映える情景が見たくて映画館に足を運んだ。皮をむき十数個ずつ紐で繋いだ紅柿が簾(すだれ)状に、何段もの高い棚に吊るされ明るい秋の陽ざしを浴びて輝く情景に、息を呑んだ。

人々の手と心の温もりが、淡い黄赤(きあか)の渋柿を深く沈んだ重い朱赤(しゅあか)に変えてゆく。それは日本一渋い柿が日本一甘い干柿へと熟成してゆく過程でもある。柿と交わる人々の表情のやさしさ、穏やかさ。自然に懐かれ自然を信頼して働く人々の「人間としての奥深さ」がそこににじむ。どの柿の木にも数個の実が高い梢に残されている。小雪が舞い始めるころに鳥たちがついばむそれらの実は「守り柿」と呼ばれ、人間が鳥たちに託した天への捧げものだそうだ。

今年の柿はことのほか美味い。卓上に柿を切らさないために、スーパーから柿を運ぶ毎日である。

山崎方代さんに、

  「甲州の柿はなさけが深くして 女のように赤くて渋い」

という歌がある。山形県上山の柿もきっと「なさけが深くして 女のように赤くて渋い」に違いない。

渋い「女」(じゃなくて、「柿」)ほど、熟せば甘い。「渋い」という日本語は、それにぴったり一致する西洋語を持たないようである。その類義語を探せば、英語でもドイツ語でも、bitter(ビター)であろうか。薬の副作用で味覚が混乱している私だが、今いちばん口に合うのは、bitter-sweetな味である。(下の写真は近所の柿)

Kaki

2009年10月15日 (木)

野分

先週半ば、台風17号が紀伊半島をかすめて愛知県に上陸、中部地方から東北地方を縦断した。大阪でも夜半窓を打つはげしい風雨の音に目が覚めた。翌日、近くの公園を歩くとケヤキやクヌギの枝が折れ、道をふさいでいた。

 鳥羽殿へ五六騎いそぐ 野分かな(蕪村)

冬の訪れを背中に感じる野分である。俳人は、身の細るような思いで夜明けを待っている。すると、暴風雨の中に疾駆する馬の嘶(いなな)き、蹄(ひづめ)の響き、荒々しい人声、武具の鳴る音が聞こえてきた。雷鳴がとどろき稲妻が走る。一瞬、夜の闇に騎馬武者の姿すら浮かび上がったのだった。 

鳥羽殿は、洛南の鳥羽離宮のこと。平安末から鎌倉時代にかけて後白河法王と清盛、後鳥羽上皇と鎌倉幕府などの熾烈な権力闘争の舞台となり、多くの人命が失われた。蕪村のこの句など読むと、俳句はまたバラード(物語詩)の世界に適したジャンルのひとつではないかと思われてくる。バラードは驚くべき事件の核心を切っ先鋭い言葉で具象的に描き出す。絵画と音響が鋭くせめぎあう。俳句は、世界最小のバラードであろう。

絵画性と音楽性とが見事に融合するこの句から、ヴァグナー「ワルキューレの騎行」の響きが聞えたと言えば、蕪村は苦笑することであろう。

写真は、千里川沿いの姫ホタルの生息地。

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2009年10月11日 (日)

『荒野の呼び声』と『荒馬と女』

レイモンド・カーヴァーの短編『ぼくが電話をかけている場所』に、「ぼく」が入っているアルコール中毒療養所所長のフランク・マーティンが向かいの丘を指さして、「ジャック・ロンドンは昔、あの谷の向こうに広い土地を持っていた。君らの見ている緑の丘のちょうど向こう側だよ。でも彼はアルコールのおかげで死んだ。それを教訓にしなさい。彼は我々のうちの誰よりもすぐれた人間だった。しかし彼もまた酒を統御することができなかったんだよ。」

「あっそうだったんだ」と思い、「やっぱり」とも思った。代表作『荒野の呼び声』(『野生の呼び声』の方が正しいように思うが)に響く「呼び声」は、「アルコールの呼び声」でもあったのだ。もちろん揶揄的に言っているのではない。アメリカ文学、広くアメリカ文化の根本問題がそこに見え隠れしているからだ。

アメリカ文学の永遠のテーマである「<自由としての野生・暴力>へのあくなき回帰願望」は、「文明の病い」と表裏の関係をなしているように思われる。果敢なフロンティア精神(西部魂、アラスカ魂)の見せかけは、じつは「文明の罪障観念」の臆病な抑圧――そこにアル中の問題が潜んでいる――が被っている仮面ではないのか。

『荒野の呼び声」を読むと、われわれは奇妙な錯乱を覚える。主人公の犬バック(カリフォルニアのサンタクララの豪邸に飼われていたセントバーナードとシェパードの混血犬)は、犬泥棒に拉致されて苛烈な「棍棒と牙の掟」の下、アラスカの厳しい自然を生き抜いて、次第に野生に目覚めてゆく。しかし、束の間自分を慈しんでくれた飼い主ジョン・ソーントンのことを決して忘れない。ソーントンがイェハット族に殺されたあと、バックはイェハット族のキャンプを襲い、猟師の喉をむごたらしく噛み裂く。彼らから「白い悪魔」と恐れられたこのオオカミは、毎年夏になるとソーントンの殺された渓谷を訪れて、「しばし思いにふけったあと、ひと声、長く悲しげに吠えて立ち去る」のである。

バックは「文明の野生化」なのか、「野生の文明化」なのか。多分、「文明の内なる野生(暴力)」が抱え込んだ「癒しがたい悲しみ」とでも言うべきではなかろうか。そして同じ悲しみを抱え込んだ作者ロンドンは、そこからアルコールへと逃れたのではなかったか。

ジョン・ヒューストン監督の映画『荒馬と女』でクラーク・ゲーブル演じる老カウボーイは野生と男らしさ(あるいは暴力、力)とアルコールに溺れるアメリカ映画のヒーローである。野生馬を捕獲するシーンをスタントなしで演じたゲーブルだったが、それが彼の遺作となったのは示唆的だ。

「アメリカ文学とアルコール」については森岡裕一氏のすぐれた研究があることを付言しておく。

酔いどれアメリカ文学―アルコール文学文化論

 荒野の呼び声

アケビ ― 里山小町

千里中央へ歩いて出る途中、バス道のすぐ脇にアケビの実が落ちているを見つけた。見上げると、木に巻きついた蔓の高いところに、ぱっくり口を開いたアケビの実が三つ四つ吊り下がっていた。北摂の里山でアケビを見つけたのは初めてだった。まるで「森のダイヤ」でも見つけたように高揚した。

帰って早速『キャンパスに咲く花』に当たると、むむっ、阪大の吹田キャンパスには「類似植物」のミツバアケビが生育していると書いてあるではないか。「類似植物」って何なんだ?「似て非なるもの」なのか、「亜種」なのか?私が撮ったのは、「アケビ」か「ミツバアケビ」か?そして、これ食べれるのかな?

数年前、新潟県六日市の山荘に泊まってアケビを始め各種のきのこなど山家料理を心ゆくまで堪能した。帰りにはお土産にアケビをいっぱい頂いて、アケビの実のぼってりした皮の挽肉詰めなど作って食べた。苦味があって美味かった。

とはいえ、こんなご近所のアケビさんは「里山小町」とでも呼び、遠目に見るだけでそのままそっとしておきたい。

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2009年10月10日 (土)

ホタル

秋も急勾配に深まってゆくこの季節にいまさらホタルでもあるまいという気もするが、このごろブログ記事を書いていると、自分がまるで中空に浮かび漂っているホタルを捕らえ両掌の隙間に遊ばせて、指の間からもれる光をじっと見つめているみたいに思えて、ふと

 もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂(たま)かとぞ見る

という和泉式部の歌を思い出した。私のホタルも「わが身よりあくがれいづる魂」の一種なのだろうか。

では「もの思ふ」とは何か。大野晋「モノとは何か――ものがたり、もののあわれの意味」というすぐれた研究(『語学と文学の間』 岩波書店 2006年 所収)がある。私たち日本人の心の歴史を考える上で、欠かすことのできない文献だ。

大野氏は「モノとは個人の力では変えることのできない『不可変性』を核とする。(・・・) 具体的には社会の規制・規定のことであり、儀式・行事の運用であり、人生の成り行き、あるいは運命、あるいは道理、また忘れがたい、動かしがたい事実などでもある。今日では、一般にモノといえばまず物体を意味すると思われているが、それは物体も不可変な存在であると見た」からであると書いておられる。

したがって「もの思ふ」とは、一般に受け取られているように「何となく思うこと」ではない。モノとは「自分の過去の記憶の中にある忘れられない事実」をさすことばであり、「もの思ふ」とは「人の世の定めのあわれさ」、「過ぎ去った逢瀬と別れ、その取り返しのつかなさ」を思うことなのである。

「もののあわれ」が、とりわけ「男と女の出会いと別れのあわれさ」を意味するようになったのは、平安中期以降、『源氏物語』に拠るところが大きい。同時代の和泉式部の和歌もそれに与り、日本人の心の歴史に艶な色彩を添えてきた。

とはいえ、「取り返しがつかない」のは男女の仲だけではない。齢(よわい)を重ねるとは、「取り返しのつかない」ことを積み上げてゆくプロセスだ。過去の「取り返しのつかなさ」に気づくとき、魂は「あくがれ」て、つまり身体という本来の居場所を離れてホタルのように中空に漂い出てゆく。

終戦直前南洋のどこかの島でアメリカ軍の総攻撃を待ち受ける夜、青く光る木が闇に浮かび上がる幻想的な光景を見た何人かの日本兵がいた。じつは無数のホタルが群がって光るマングローブの木だったらしいが、ひょっとするとおびただしい戦死者の魂が群がる「ホタルの木」だったのかもしれない、と私にはそんな気がする。

語学と文学の間 (岩波現代文庫)

吾亦紅(われもこう) 

吾亦紅は花ともいえぬ地味な秋草である。私の子どもの頃には、野原、田の畦、川辺のどこにでも見られたように思う。ひょろひょろと伸びた茎が枝分かれしてその先に赤く染まった<つくし>のような花をつける。今は、生け花の花材として店頭に並んでいると聞く。吾亦紅はステータスを上げたのか、下げたのか、わからない。

秋の風情をカメラに収めようと近くの里山を歩いた。しかし、お目当ての吾亦紅は、見つけられなかった。もう都市近郊からは姿を消してしまったらしいと諦めた。すると途端に、齋藤史歌集に吾亦紅を見つけた。

 人を瞬(またた)かすほどの歌なく秋の来て 痩吾亦紅(やせわれもこう)それでも咲くか(齋藤史)

老境にさしかかった歌人の諧謔を交えた自己批評だと思われるが、「痩吾亦紅それでも咲くか」とは烈しい。しかし、そこには野に捨ておかれ、かえりみられることない「吾亦紅」との秘めやかな連帯がふつふつと滾(たぎ)っている。

カメラをしばし脇において、秋の野に痩身を晒すわが身こそ「痩吾亦紅」だと思った。すると笑いがこみ上げてきた。

齋藤史のもう一首。

「おいとまをいただきますと戸をしめて出てゆくようにゆかぬなり生は」

今日、吾亦紅を探して枳殻(からたち)の生垣に行く手を阻まれた。

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2009年10月 7日 (水)

チェーホフの風景 その5

チェーホフの臨終を描いた『使い走り』は、レイモンド・カーヴァー(1939-1988)の最後の短編小説である。自身が癌に侵されていたカーヴァーは、チェーホフの死に自らの死を重ね合わせ、渾身の力をふりしぼってこの作品を書いた。

ドイツの保養地バーデンヴァイラーのホテルでチェーホフを看取ったのは妻のオリガと医師のシュヴェーラー博士だった。死が分刻みで迫っていると判断した博士は、最上のシャンパンとグラスを三つ持ってくるようにとホテルのキッチンに電話した。

「チェーホフは残った力を振り絞ってこう言った。『シャンパンを飲むなど実に久し振りのことだな』と。彼は唇にグラスを運んで飲んだ。ちょっと後でオリガはその空になったグラスを彼の手から取って、ベッドサイドのテーブルの上に置いた。チェーホフは体を横に向けた。目を閉じて、溜め息をついた。その一分後に彼の呼吸は止まった。(・・・)『光栄なことでした』とシュヴェーラー医師は言った。そして鞄を手に取り、部屋から、そしてさらに言うならば歴史から、姿を消した。シャンパンのコルク栓がぽんという音をたてて飛んだのはちょうどそのときだった。テーブルの上に泡がこぼれ出した。オリガはチェーホフの側に戻った。彼女は足載せ台に座って彼の手を取り、時々彼の顔を撫でた。『人の声も聞こえず、日常世界の物音も聞こえなかった』と彼女は書いた。『そこにあるものはただ美と平和と、そして死の壮大さのみであった。』」

「死の壮大さ」と「コルク栓のぽんと飛ぶ音」の絶妙の対比。「コルク栓のぽんと飛ぶ音」は、偉大な作家の死を相対化する。チェーホフ自身が「ポンと音をたてて「生」から「死」と飛んだのだ。

ここまでが伝記的事実に即した(?)前半。後半は一転して、作者はまことにささやかな、しかしおかしくも愛すべき人生の情景に思いを潜め、幻想の領域に踏み込んでいく。夜が白み始める。ドアをノックしたのは、昨夜たたき起こされて眠い目をこすりながらシャンパンを運んできた金髪のボーイ。今はさっぱりとした身支度と表情で3本の黄色いバラを活けた花瓶を両手に捧げ持っている。彼には部屋の主の死はまだ知らされていなかった。

「女がじっと床を見下ろしていたので、彼も下に目をやった。そして即座に自分の足のつま先に転がっているコルク栓に目をとめた。彼女はそれを見ているのではなかった――彼女の目は別の何かに向けられていた。」

オリガは若者に、この町いちばんの葬儀屋を連れてくるようにこと細かに指示した。「若者の顔は青ざめていた。そこに立ちすくみ、花瓶をぎゅっとつかんでいた。(・・・)『あなたは静かな確固とした足取りで、しかし不自然に急ぐことなく、葬儀屋のところに行かなければなりません。(・・・)さあ、もう行きなさい。』 でもそのとき、若者はまだ自分の足のつまさきに転がっているコルク栓のことを考えていた。それを拾いあげるためには、花瓶を抱えたまましゃがみこまなくてはならない。そうしよう。彼は身をかがめた。下を見ることなく、彼は手を伸ばして、それを手の中に収めた。」

チェーホフの世界に寄せるレイモンド・カーヴァーのかぎりない愛惜が胸に迫ってくる作品である。

Carver's dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選 Carver's dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選

著者:レイモンド カーヴァー
販売元:中央公論社
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2009年10月 4日 (日)

蝶の翅の裏表(うらおもて)

翅を閉じて(垂直に立てて)とまるのが蝶、翅を水平に開いてとまるのが蛾とはよく聞く話だが、本当だとしたら蝶と蛾との違いは源氏と平家くらいには大きいような気がする。しかし、本当かしら?まだ確かめていない。

最近撮ったホシミスジチョウ(だと思う)の翅は、裏と表で大違い。どっちが表でどっちが裏か、どなたかご存知の方があれば、ぜひ教えてください。

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ランタ男 ―― ランタナと揚羽蝶

ランタナの花をはじめて見たのは、もう7~8年前のこと。可愛い花だなと一目惚れ。畑の畦にランタナの花が咲き乱れていて、畑仕事をしているおじさんに「一枝いただいていいですか?」と声をかけると、「どうぞどうぞ。いくらでも」と手袋をはめた手で無造作に片手に余るほど手折って下さった。それ以来、私はランタナの大の贔屓(ひいき)で、折あると写真に撮り、撮った写真を年賀状のイラストに使ったりした。贔屓が嵩じて、さまざまな種類、花色の鉢植えを次から次へと買い込んでヴェランダに並べたものだ。

ところが、いざ自分で育ててみると、これが何と私の手に余った。野放図に伸び広がる。遣り水を欠かすとすぐにぐったりする。幹や葉に棘みたいな繊毛(というより剛毛)が密集している。枝や葉は強い匂い(芳香もあり悪臭もあり)を放ち、咲き続け散り続ける花の花弁はヴェランダ一面を埋め尽くす。要するに、天衣無縫、好き勝手、やりたい放題ということがわかってきた。「こりゃ、ロリータだ」と気がついたときには、すでに遅すぎた。浮気心の代償を今も払い続けている。とはいえ、ランタナを見かけるとすぐにカメラを向けるのは、すでに「習い、性となっているから」である。それにしてもやっぱり、きれいな花だナア。そんな奴は、「ロリコン」のひそみに倣って「ランタナン(ランタ男)」とでも呼ぶか。

ところで、蝶もこんなランタナが大好きらしい。ランタナの花には、青スジアゲハ、カラスアゲハ、モンシロチョウ、キチョウなどが群がっている。ランタナが甘い蜜を出しているに違いない。「ランタナン」は今が引き際かもしれない。(写真はランタナに止まるアオスジアゲハとモンシロチョウ。)

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2009年10月 3日 (土)

チェーホフの風景 その4

最近ロシアへ旅されたAさんに、お土産としてロシアの主婦の手作りジャムというのを頂いた。リンゴとスモモとコケモモのようなベリーのミックスジャムで、甘みが強く野趣に富んだ味だった。Aさんのおっしゃるには、ルシアンティーはジャムをティーに入れるのではなくて、添えたジャムを舐めながらティーを飲むそうだ。ともかく、最近ゴーゴリ、ドストイェフスキー、トルストイ、チェーホフをはじめとするロシア小説を読むことが多いので、本場のジャムはロシアへの「ノスタルジア」をかき立てた。

ところでチェーホフの小説を読むと、彼には「食」へのこだわりが人一倍深かったように思える。丹念に描かれた飲食の情景のなかに、いつ果てることもなく繰り返される人間の日々の営みの「愉悦」と「苦(にが)さ」と「悲哀」と、そして人間の「いじらしさ」を見ていたのではないかという気がする。彼の小説では、居間や食堂のテーブルの上でサモワールが絶えずしゅんしゅんというかすかな音を立てている。その音がまるで作中人物たちの人生の通奏低音をなしているかのようだ。

『可愛い女』のオーレンカは、土曜日ごとに二度目の夫で木材商人のブストヴァーロフと夜祷会に、祭日には朝の弥撤(ミサ)に出かける。そんなとき、

「彼女の絹の衣裳がさらさらろ快い音を立てるのだった。さてわが家に帰るとお茶になって、味つきパンやいろんなジャムが出たあとで、仲よく肉まん(ピローグ)に舌つづみをうつ。毎日、お昼になると、中庭はもとより門の外の往来へまで、甜菜スープ(ボルシチ)だの羊や鴨の焼肉だののおいしそうな匂いが漂い、それが精進日だと魚料理の匂いにかわって、門前に差しかかる人は、食欲をそそられずに行き過ぎるわけにはいかなかった。」

田舎の小地主シューミン家(『いいなづけ』)では、主人公ナーヂャと兄妹のようにして育ったサーシャが、肺結核を病みモスクワから帰郷している。サーシャを愛(いつく)しんできた祖母は、彼に向かって、「一週間もわたしのところにいればすっかりよくなるよ、お前。ただ少しでもたくさんおあがり。おや何という顔をするんだろう」と言って溜息をつくのである。

「二時にみんなは午餐の席についた。ちょうど水曜日で精進日にあたっていたために、祖母には肉のはいらないボールシチとうぐい入りの麦がゆが出された。祖母をじらすために、サーシャは自分用の肉入りスープと肉なしボールシチの両方に手をつけた。食事のあいだじゅう彼はしきりに冗談を飛ばしたが、彼の冗談はきまって教訓的な含みを持った仰山なもので、それも洒落を言う前ぶれに例の長い、痩せた、死人のような指をあげて見せると、まるでおかしさが消えてなくなった。そしてふと、彼の病気がとても重く、もうあまり先が長くないのを思い出すと、聞き手の方では涙が出るほど彼が不憫でならなくなった。」

七月の土砂降りの朝モスクワに帰るサーシャの辻馬車に、ナーヂャは大きなトランクを持って乗り込んだ。結婚式を数日後に控えながら破談を決意し、勉強のためにペテルブルクへ旅立ったのだった。(下の図版は、サモワールのある農家の居間。)

Kruglikovalikbez

2009年10月 2日 (金)

チェーホフの風景 その3

ウラジーミル・ナボコフの『ロシア文学講義』は、ロシア文学にとどまらず、総じて文学とは何か(それはまた人生とは何かということでもある)を教えてくれる稀有な指南の書である。

「何はともあれ銘記すべきは、文学作品とは思想のパターン(「綾織り」とでも訳すべきか)ではなく、形象のパターンであるということなのだ。作品のなかの形象の魔力と比べれば、思想など何ほどのものでもない。」

「私たちがチェーホフの短篇群の到る所に見るものは絶え間ない躓(つまず)きだが、それは星を見つめていたために躓いた男(または女・・・筆者)の躓きである。それらの人物たちは夢見ることはできたが、指図することはできなかった。(・・・)彼らはいくたびも機会を逸し、行動を避け、いくたびも夜を徹して築くことができもしない世界の図面を引いた。だが、そのような情熱に満ち、自己犠牲の精神に燃え、魂の純粋さと精神の高さとを保った人間がかつて確かに生きていたし、冷酷で卑しい今日のロシアのどこかに現在なお恐らくは生きているという事実――単なるその事実が、すなわち、世界全般によりよい事態が到来することの約束ではないだろうか。なぜなら、自然界のみごとな諸法則のなかでたぶん最もみごとな法則は、一番弱いものが生き残るということであるからだ。」

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チェーホフの風景 その2

チェーホフのたくさんの小説のなかで、晩年の『中二階のある家』、『可愛い女』、『犬を連れた奥さん』、『いいなづけ』が、私は特に好きだ。

『中二階のある家』のジェーニャ、『可愛い女』のオーレンカ、『犬を連れた奥さん』のアンナ・セルゲーヴナ、そして『いいなづけ』のナーヂャ。どの女性の面影もその名とともに忘れがたい。

「うら淋しい八月の夜だった。(・・・)紫色の雲にとざされて月がさしのぼり、道や、道の両側のくろぐろとした秋蒔きの畑を、かすかに照らしていた。流れ星が多かった。ジェーニャはわたしとならんで道を歩きながら、つとめて空を見ないようにしていた。流れ星がなぜか心をおびえさせるので、見ぬようにしているのだった。」(『中二階のある家』)

「彼女はしょっちゅう誰かしら好きでたまらない人があって、それなしではいられない女だった。(・・・)物静かな、気だてのやさしい娘さんで、柔和なおだやかな眸をして、はちきれんばかりに健康だった。そのぼってりした薔薇いろの頬や、黒いほくろが一つポツリとついている柔らかな白い頸すじや、何か愉快な話を聴くときよくその顔に浮かび出る善良なあどけない微笑(・・・)。」(『可愛い女』)

「海がしけたので船はおくれて、日が沈んでからやっとはいって来た。そして、波止場に横着けになる前に、向きを変えるのに長いことかかった。アンナ・セルゲーヴナは柄付眼鏡(ロルネット)をあてがって、知り人を探しでもするような様子で船や船客を眺めていたが、やがてグーロフに向かって物を言いかけたとき、その眼はきらきらと光っていた。彼女はひどくお喋りになって、突拍子もない質問を次から次へと浴びせかけ、現に自分が訊いたことをすぐに忘れてしまった。それから人ごみの中に眼鏡をなくした。」(『犬を連れた奥さん』)

とりわけチェーホフ最後の小説『いいなづけ』は、主人公ナーヂャに対するチェーホフの愛情が素直に細やかに表現されていて、心を打つ。ナーヂャは二十三才、十六の年から結婚を夢見てきて、二月後の七月七日に婚礼を控えている。それなのに、ナーヂャは心がはずまない。

「庭はひっそりとして肌寒く、暗いもの静かな影が地面に落ちていた。どこか遠い、ずっと向こうの町はずれのあたりでかえるの鳴き交わす声が聞こえた。五月が、いとしい五月が感じられる!思わず吸う息が深くなり、この庭先ではなくどこか遠い空の下、木立の上に、町を遠くはなれた野原や森かげに、今この瞬間、弱い罪にけがれた人間にはわからない神秘的な、うるわしい、豊かで清らかな春の生活(いとなみ)が、さっと広がったのではないかと思いたくなる。そして、なぜか、泣きたいような気がしてきた。」

「台所のある地階からは、人々がせわしげに行き来する足音や、包丁のとんとんという音、ドアがばたんばたんと鳴る音(・・・)が聞こえ、七面鳥を焼く匂いや酢漬けの桜ん坊の匂いがただよっていた。そうしてなぜか、こんなふうなことが一生涯、いつはてるともなく、このまま続いてゆくのではないかという気がしてきた。」

兄妹同様に育ち、婚約の破棄とペテルブルクへの留学を励ましてくれたサーシャ。一年後、郷里に戻ったナーヂャはサーシャの死を知らせる電報を受け取った。

「『さようなら、なつかしいサーシャ!』と彼女は心のなかで思った。(・・・)彼女は自分の部屋へあがって、荷物をまとめた。そしてあくる日の朝、身うちの人々に別れを告げて、生き生きとした晴れやかな気持ちで町を去った。――二度と帰るまいと思いながら。」(『いいなづけ』)

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2009年10月 1日 (木)

チェーホフの風景 その1

図書館で『チェーホフの風景』という大冊の美しい写真集を見つけて借りてきた。重さが5キロほどもありそうで、今の私の体力では帰り道が結構つらいかなと思ったが、勇を鼓して借りた。しかし、自宅の机の上にどっかと置いてページを繰り、チェーホフ自身や家族・友人たちの肖像写真、作家が生まれた町、暮らした土地、旅した風景を飽かず眺めているうちに、チェーホフの小説世界の住人になったような気がした。

この澄み切った深いまなざしを持つ作家チェーホフは、1860年に黒海沿岸の鄙びた小都市タガンローグで生まれた。1875年ごろのタガンローグを撮った一枚が心に残った。100段にも及ぶ広くて高い石の階段が、まっすぐに上にのびている。その先は空。両側に枯木立が並んでいる。いろんな職業のいろんな装束をした人々が階段を上り下りしている。途中で一息ついている人、石の手すりに腰を下ろしている人、階段の途中で立ち止まって話し込んでいる男女もいる。まるでチェーホフの小説世界だと思った。

チェーホフは、1904年7月2日ドイツの保養地バーデンワイラーで肺結核のために亡くなった。44歳だった。亡くなる半月前の6月16日に妹マーシャに宛てて、こんな手紙を書いている。

「愛するマーシャ、(・・・)健康は回復しつつあります。歩いても、もう自分が病気だとは感じられない。ちゃんと歩いています。喘息も少なくなった。どこも痛くない。ただ病後のやつれがひどく残っていて、足はかつてないほど細くなっている。(・・・)朝7時にベッドでお茶を飲む。(・・・)8時になってどんぐりのココアを飲み、それと一緒にとてつもない量のバターを食べなくてはならない。10時には濾過したオートミールの重湯を飲む。ものすごくおいしくて、薫りがいい。(・・・)日光を浴びながら、新鮮な空気を吸い、新聞を読む。1時に昼食。(・・・)4時にふたたびココア。7時に夕食。就寝前に一杯の苺ティー。――これはよく眠れるように。すべてにひどくいんちき療法の匂いがします。(・・・)イタリアがひどく恋しい。」

自分の死期を知りつつ、妹マーシャへのいたわりに満ちた文面。ユーモアと滑稽と悲しみと生への執着が、手紙の切れ端にも美しく織り合わされている。上の手紙の1月前、妻のオリガ・クニッペル宛てて書いている。

「人生とは何ぞや、と君は尋ねる。それは人参とは何ぞや、と尋ねるようなもの。人参は人参です。それ以上のことは言えない。」

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