« ソバナ 青い鈴を鳴らす風 | トップページ | ソバナでなく、ツリガネニンジンでした。 »

2009年9月30日 (水)

マリア・チョドロフスカ

1975年ボン大学に留学しているとき、半年間当時の首相官邸に近いパウル・クレーメン通りの未亡人宅に下宿していた。家主マリア・チョドロフスキーさんは知的で穏やかで美しい女性だった。その頃すでに70歳。マリアさんは居間で、私は書斎で過ごし、朝食は食堂でいつも二人でとった。彼女は200と血圧が高かったので、「朝起きてこなかったら、寝室をのぞいてね」と頼まれていた。

チョドロフスキーの名前からもわかるように、シュレージエン地方(現在ポーランド領)の大きな農家のお嬢さんだったようだ。第2次大戦の敗戦後、身一つでドイツに引き上げてきた。旦那さんは長らくソ連に抑留されていて、帰国がかなったあと、早く亡くなった。一人息子はボン近郊の村に家族と別居していたが、週末にはきまって二人の娘ガブリエーレとバルトラウトを連れてマリアさんを訪問していた。

シュレージエンへの郷愁には深いものがあって、その様子をよく聞かせてくれた。故郷では大晦日(ジルベスター)に鯉(Karpfen)を食べる風習があったらしい。その日、鯉料理に招待してくれた。5~60cmの大鍋に大ナマズに似た鯉がそのままの姿で煮られていたのにはびっくり、腰が引けた。マリアさんは「身が柔らかくて(weich)美味しいんだよ」とすすめてくれた。わたしたちは魚料理を評するときには、「身が締まっている」とほめる。彼我の食文化の違いを思い知らされた。それも、嬉しい体験だった。

マリアさんにはとても大切にしてもらった。下宿してから一月ほどして、マリアさんに断らずにゲッティンゲンに1泊旅行した。マリアさんはずいぶん心配したらしく、玄関に入ると「ああ、何て放蕩息子でしょう(Mein verlorener Sohn)」と抱きしめてくれた。

15年前(1995年)にパウル・クレーメン通りにマリアさんを訪ねた。息子が出てきて、「母は10年も前に亡くなった」とのこと。埋葬されている墓地を教えてくれた。ドッテンドルフというボン近郊の小さな村の墓地に花束をたずさえって行った。

ホーム・パーティーのおり、マリア・チョドロフスキーさんのことをみんな冗談でマリア・チョドロフスカと呼んだ。マリアさんの身ごなしがロシアの貴族を思わせたからだ。  

Photo

« ソバナ 青い鈴を鳴らす風 | トップページ | ソバナでなく、ツリガネニンジンでした。 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1221163/31580407

この記事へのトラックバック一覧です: マリア・チョドロフスカ:

« ソバナ 青い鈴を鳴らす風 | トップページ | ソバナでなく、ツリガネニンジンでした。 »

2017年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        

星座 (リンク集)

無料ブログはココログ