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2009年9月 9日 (水)

踏み分け道

人にも獣にも魚にも虫にも鳥にも、その棲むところには必ず道がある。道は生活の証しだからだ。翅(はね)や翼を持つ者たちは、私たち人間の目には見えない空の道を知っているのだ。

一夜にして雪(あるいは砂あるいは草)に覆いつくされすべての道がかき消された風景は、その無機的・抽象的な純粋さで私たちを粛然とさせる。しかし、その<無地のカンバス>と言っていい風景にひとすじ真っ直ぐにのびる<踏み分け道>は、私たちに生命の鼓動を伝えて慰めと励ましに満ちている。

わが宿は雪ふりしきて道もなし 踏み分けて訪(と)ふ人しなければ (『古今集』冬、読み人知らず)

<踏み分け道>のことをふと考えたのは、公園の緑地を取り囲んで美しく整えられた敷石・敷木の遊歩道をぼんやりと歩いていたときだ。その遊歩道は通勤者の駅への通路にもなっている。となると、一分一秒を争って電車に間に合せようと急ぐ人には当然、植栽の囲いは行く手を阻む障害物でしかない。植栽や緑地の、駅への近道を提供してくれる部分は、いつのまにか<自然と>踏み固められ無残な裸の地面に返る。とは言え、急ぐ通勤者を責められない気がする。なぜなら、そのような<踏み分け道>をいたるところで目にするからである。

都市の近郊で緑地や公園の整備が進んでいるのは、うれしい。私の住むマンションの近くにも、羽鷹池公園が整備された。ただ時おり、公園の整備が<自己目的化>していないかと危惧する。公園や緑地は抽象的な理念に即するのではなく、自然に即して整備してほしい。自然とは、もちろん外なる自然(環境)であると同時に、内なる自然(人間の心)でもある。

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