« 2009年8月 | トップページ | 2009年10月 »

2009年9月

2009年9月30日 (水)

ソバナでなく、ツリガネニンジンでした。

「ソバナ」は、「ツリガネニンジン」ではないかとのご指摘を受けました。確かに『キャンパスに咲く花』(吹田篇)の203頁に美しい写真と説明がありました。さすがですね。

別名トトキ。「山でうまいはオケラにトトキ、嫁に喰わすも惜しゅうござんす」との俚諺があるそうだ。古くからよく知られた山菜で、新芽が食用になるらしい。大阪大学のキャンパスには少ないので、採らずに秋に咲く花を楽しんでほしいとのこと。春にこっそり摘みに行きたいが、きっとお腹が痛くなるだろうことだろう。

マリア・チョドロフスカ

1975年ボン大学に留学しているとき、半年間当時の首相官邸に近いパウル・クレーメン通りの未亡人宅に下宿していた。家主マリア・チョドロフスキーさんは知的で穏やかで美しい女性だった。その頃すでに70歳。マリアさんは居間で、私は書斎で過ごし、朝食は食堂でいつも二人でとった。彼女は200と血圧が高かったので、「朝起きてこなかったら、寝室をのぞいてね」と頼まれていた。

チョドロフスキーの名前からもわかるように、シュレージエン地方(現在ポーランド領)の大きな農家のお嬢さんだったようだ。第2次大戦の敗戦後、身一つでドイツに引き上げてきた。旦那さんは長らくソ連に抑留されていて、帰国がかなったあと、早く亡くなった。一人息子はボン近郊の村に家族と別居していたが、週末にはきまって二人の娘ガブリエーレとバルトラウトを連れてマリアさんを訪問していた。

シュレージエンへの郷愁には深いものがあって、その様子をよく聞かせてくれた。故郷では大晦日(ジルベスター)に鯉(Karpfen)を食べる風習があったらしい。その日、鯉料理に招待してくれた。5~60cmの大鍋に大ナマズに似た鯉がそのままの姿で煮られていたのにはびっくり、腰が引けた。マリアさんは「身が柔らかくて(weich)美味しいんだよ」とすすめてくれた。わたしたちは魚料理を評するときには、「身が締まっている」とほめる。彼我の食文化の違いを思い知らされた。それも、嬉しい体験だった。

マリアさんにはとても大切にしてもらった。下宿してから一月ほどして、マリアさんに断らずにゲッティンゲンに1泊旅行した。マリアさんはずいぶん心配したらしく、玄関に入ると「ああ、何て放蕩息子でしょう(Mein verlorener Sohn)」と抱きしめてくれた。

15年前(1995年)にパウル・クレーメン通りにマリアさんを訪ねた。息子が出てきて、「母は10年も前に亡くなった」とのこと。埋葬されている墓地を教えてくれた。ドッテンドルフというボン近郊の小さな村の墓地に花束をたずさえって行った。

ホーム・パーティーのおり、マリア・チョドロフスキーさんのことをみんな冗談でマリア・チョドロフスカと呼んだ。マリアさんの身ごなしがロシアの貴族を思わせたからだ。  

Photo

2009年9月29日 (火)

ソバナ 青い鈴を鳴らす風

今日の夕方、田のあぜ道で薄い青紫の釣鐘型の花を見つけた。他の野草に埋もれて咲いていた。いかにも地味で引っ込み思案なうつむき顔。しかし、風が吹いて釣鐘が揺れると、ちりんちりんと微かな響きをたてているかのようだった。

ネットの植物図鑑で検索すると、ソバナ(蕎麦菜)の名が出てきた。キキョウ科の多年草。和名は、葉が蕎麦の葉に似ているからとも、崖づたいの阻(そば)道に生えるからとも。

それにしても、私の周囲にもまだまだ何とたくさんのこれまで気がつかなかった花や草や木があることか。それぞれが個性的で、大声で自己主張するもの、可愛ゆげに微笑みかけてくるもの、寡黙で誰にも見られたくないといった風情のもの、「放っておいて。余計なお世話はしないで」と、けんつくな顔のもの。多様な個性の多様な生き方が、この世界の永続を保証している。

「そう、私は日曜日が来ると息子のフィップスを連れてヴィーンの森をさまよった。流れに出会うと、心の中でこういう声があがった。――この子に水のことばを教えよ!石を越える。木の根を越える。この子に石のことばを教えよ!この子を新しく根づかせよ!木の葉が散る、というのもふたたび秋がめぐってきていたから。この子に木の葉のことばを教えよ!」 (インゲボルク・バッハマン 『三十歳』)

Photo

2009年9月27日 (日)

カワセミに出遭った日

9月末の秋晴れの朝千里川べりを歩いていると、あざやかなコバルト・ブルーの鳥が川面をこするように飛び、視界をすばやくよぎって岸の茂みに消えた。その瞬間、カワセミだと思った。私のなまくらな技量では、「川辺の青い宝石」とも称されるその姿をカメラに収めることはとうていできなかった。悔しさと当たり前だという気持ちが半々だった。カワセミの姿がそんなに易々と撮れるわけがないではないか。しかし、私の眼底にはその「青い稲妻」がくっきりと残った。いつの日かあの場所でカワセミにきっと再会できるに違いないという思いが、その日一日私を微笑ませてくれた。

子どものころ豊中駅近くに日進堂という小さな小さな本屋さんがあった。今もあるようだが、商いが行われているかどうかわからない。今となっては小さすぎて見過ごしてしまいそうなお店だ。日進堂書店には、「置いてあればいいのにな」と切ない願いを懐いて出かけると、きっとその本が見つかった。店主さんの天筒さんの選書眼が光っていたのだ。その天筒さんはバードウオッチングでも有名だった。直接お話を伺ったこともある。彼が羽鷹池で撮ったカワセミの写真が、私の部屋のどこかに絵葉書で残っているはずだ。

ここに掲げたのはヴィキペディアから拝借したが、できるだけ早く天筒さんの絵葉書写真に差し替えたい。わたし自身が撮影した写真を掲載できる日は・・・、まだ遠そうだ。

Photo

名 告(の)らさね ― 『キャンパスに咲く花』

『万葉集』巻頭の雄略天皇の歌、

 「籠(こ)もよ、み籠(こ)持ち / 堀串(ふくし)もよ み堀串(ぶくし)持ち / この岡に菜摘(つ)ます児 / 家告(の)らせ 名告(の)らさね」

(摘み籠を背負い木箆(きべら)を手にして この岡で菜を摘んでいる娘さん、お前の家は何ていうの?お前の名は何というの?教えておくれ。)

この歌は、雄略天皇の求婚(つまどい)の歌とされている。万葉のむかし、相手に名前を尋ねることは求婚の意思を表わす行為であった。

自分の名を名のり相手の名を訊くことは、今ではそんな切羽詰った行為ではなくなった。しかしかつては、名はその名を持つ人そのもの、人間の実存のもっとも重要な一部だった。今ではいくらでも取替え可能な<記号>あるいはこぎれいな<包装紙>に化してしまった。名はそのときかぎりで使い捨てられ、忘れられてゆく。それと同時に、<ひと>も<もの>もそれしかない固有の顔を喪ってゆく。

いっとき「ゆとり教育」がもてはやされて、子供たちにみじかな花や木や草、虫や鳥の名前を教えなくなった。以来、自然の多種多様な事物や現象は名なしになり、数的な存在になり、均一化してしまった。ちょうどマンション住民の隣人関係みたいなものである。花や木の名にむとんじゃくな若者がこうも増えてきては、文学テクストの理解すらおぼつかないという危機感を募らせてきた。榛(はん)の木(Erlen)と柳(Weiden)がどんな木か知らなければ、ゲーテの『魔王(Erlkoenig)』の興趣は半減してしまう。

その意味で、「棗(なつめ)」の記事に触れた『キャンパスに咲く花』(阪大吹田編、豊中編)(大阪大学出版会)は、私がながらく待ち望んでいた企画だった。登下校の道すがら、顔なじみなのに名前を知らない花や木に出会ったら、みなさん、「名 告(の)らさね」と語りかけて下さい。  

キャンパスに咲く花 阪大吹田編 Book キャンパスに咲く花 阪大吹田編

著者:福井 希一,栗原 佐智子
販売元:大阪大学出版会
Amazon.co.jpで詳細を確認する

2009年9月26日 (土)

千里川

箕面市牧落に<ア・ビアントー>というとても美味しい、お奨めのパン屋さんがある。月に一度くらい気分のいいときに、2キロくらいの道のりを歩いて<ア・ビアントー>に行く。北緑丘団地内の千里川沿い遊歩道は、四季折々の自然の変化を身近に感じさせてくれる。それも<ア・ビアントー>に出かける楽しみのひとつだ。今日は真夏のような陽射しを浴びながら、カメラ片手にゆっくりと1時間もかけて歩いた。親子ガメの甲羅干し、川原の彼岸花、色づき始めたピラカンサなど、カメラに収めた。それだけで豊かな気分になった。

Photo_7

Photo_8

Photo_9

Photo_10 

棗(なつめ)

昨日、『キャンパスに咲く花』(阪大吹田編・豊中編)の編著者であるKさんが拙宅を訪ねてくださった。『豊中編』に「待兼山で出会った植物たち」というエッセイを載せていただいて以来のご縁で、このたびは半年ぶりの再会。植物(生物学)の専門家とのお付き合いが、私には嬉しい。

理系の先生方というと、文系の私なんぞ半歩引いて、斜(はす)に構えて、何となく伏し目がちに見上げてきたものである。Kさんは、私にそんなコンプレックスを微塵も感じさせないお人柄だ。Kさんとのお付き合いは、文字どおり「花の縁」である。

昨日もお茶を飲みながら、植物談義。棗(なつめ)の話も出たので、今日はKさんにお見せするべく棗の写真を撮りに散歩に出た。

じつは、私の卒業した高校の校舎裏にも大きな棗の木があって、秋にはたくさんの赤い実をつけた。ときにその実を取って口に入れた。「しなびたリンゴ」の味がした。引っ込み思案な高校生の「鬱屈」にふさわしい味だった。

Photo_3

Photo

2009年9月23日 (水)

ぼく 噛まれたいねん ― ザリガニ捕り

今日の夕刻、前日のインターフェロン注射にもかかわらずいつものような微熱と倦怠感がなかったので、自宅の近くをそぞろ歩いた。小さな(ほとんど水溜りのような)ハス池のそばで、小学生たちがザリガニ捕りに余念がない。体長5センチばかりの子どもザリガニが、はさみを振りかざしていた。「噛まれんようにな。」と言うと、「ぼく、噛まれたいねん。ほら、ここ噛まれてん。」と言って、赤くなった指先を嬉しそうに見せてくれた。

私が子どもだった頃も、ザリガニ(私たちはエビガニと呼んでいたが)捕りは男の子(だけではなかった?)のスリリングな「遊び」の一つだった。アマガエルを捕まえて、その脚を餌にザリガニを釣り上げるのである。20センチはあろうかという大物が釣れた。その鋏で噛まれたら、これは痛かった。噛まれないように慎重に背中を押さえて、獲物の大きさを自慢しあった。家に持ち帰って、洗面器に入れて上からボール紙と重石をのせておくのだが、いつの間にかいなくなっている。家族の誰かが逃がしてやったのだ。何だかちょっと「ほっとした」ものだった。

Photo

2009年9月19日 (土)

ディズニー・アニメ 『バンビ』

「ディズニーの『バンビ』が好き」とつぶやくと、周囲に微苦笑がさざなみ立つのがわかる。それでも、いっこう構わない。好きなものは好きなのだから。

生まれたばかりの子鹿が森の仲間の祝福と友情に見守られながら、母鹿の死、恋の鞘当て、父鹿との出会いなどのさまざまな経験と試練を経ながら<森の王>へと育ってゆく過程はいわゆる「ビルドゥングス・ロマーン(教養小説)」仕立てで、そこにアメリカ西部劇の味わいをちょっぴり加味したといったところか?しかし、『バンビ』にアメリカの覇権主義を見て取る人もあるらしいが、それはいかがなものだろう?

『バンビ』は、自然の生命が刻む「時間」をリアルに、かつシンボリックに描き出した作品だ。その「時間」が私たちの「内なる時間」と響きあう。

そこでは、四季折々の森の情景がこまやかに愛情を込めて描き分けられている。森の空気がコローの絵のように膚に感じられ、木々の匂いに浸されるようだ。靄の立ち込める森の夜明け、谷あいを流れるせせらぎのさざめき、木々の葉を揺らして吹き通う風、木の葉を滴り落ちる露のきらめき、風に舞い降りしきる落葉、夕焼けの空をバックにした枯木立の威厳に満ちたシルエット。

とりわけ私がいたく感心するのは、バンビの身体が年齢とともに逞しさとしなやかさを増し、親鹿の威風堂々たる体型へと変化してゆくさまがじつに丹念に描かれているところである

私が小学校の映画鑑賞会で初めて『バンビ』を観たのは5年生のとき(1955年)。学校から映画館のある豊中駅前まで箕面街道の2キロ弱の道のりを、同学年の生徒全員が整列行進して観に行った。『バンビ』の感動は大きく、今もその幸せな呪縛が続いている。

ちなみに、結婚して夫婦で最初に観に行った映画が『バンビ』だった。そして最近『バンビ』のDVDを買って、また観た。

2009年9月16日 (水)

ぜんぶ フィデルのせい

『Z』『ミッシング』の名匠コスタ・ガブラス監督の娘ジュリー・ガブラス監督の『ぜんぶ フィデルのせい』(2006年)を観た。フィデルはキューバのフィデル・カストロのこと。60年代の末から70年代の初めにかけて、ベトナム反戦運動、文化大革命、パリ5月革命、チリの人民連合の勝利と、若者の掲げる「異議申し立て」の火が全世界をおおった。両親は世界変革の情熱に目覚めて、左翼運動にのめりこんでいく。主人公の少女マリア(十歳くらい)はのんびり屋の弟フランソワとなに不自由ない生活を送っていたが、怪しげな鬚面たちが出入りし始めた家庭のきしみが許せない。(みんな好い人たちなんだが。)

マリアは負けていない。「キョウサンシュギって何よ?」「レンタイって何よ?」「チュウゼツって何よ?」「貧しい人たちのためというなら電灯もシャワーも切ってやる。」ハリセンボンみたいな仏頂面で果敢に「異議申し立て」を繰り返すマリア。「異議申し立て」る人に「異議申し立て」るという構図が、重くなりがちな内容にアイロニーの軽やかさを与えている。

「サンチアゴの雨」として知られるアジェンデ大統領の死と軍事独裁の成立。一つの時代の終わりを象徴する出来事だった。そのニュースを聞きながら涙するパパ。パパの手をそっとポケットから抜き出して握るマリア。そのときマリアは人生の階段を一段登ったのだ。

マリアを演じたニナ・ケルヴェルが、とりわけすばらしかった。

ジュリー・ガヴラス監督、ニナ・ケルヴェル

2009年9月14日 (月)

ロダンの『カテドラル』

ロダンの彫刻『カテドラル』(1908)は、2本の右手がそれぞれの指先を互いにやさしく寄りそわせて花の蕾のようなフォルムを形作っている。指先は触れ合わんばかりに近づきつつ、しかし触れ合ってはいない。二つの掌(たなごころ)は、まるで雛(ひな)か何かのような壊れやすい生命に触れ、それを「開かれた聖なる空間(=カテドラル)」の内に護ろうとしているかのようだ。

2本の右手は愛を紡ぎ合う女性と男性の手ではない。どちらの手も、女性の右手のように見える。はたしてそうなのだろうか?

ふと目を上げると、私の部屋の壁に掛けられたフラ・アンジェリコの『受胎告知』の複製画(フィレンツェ サンマルコ修道院のもの)が目に入った。その瞬間、ロダン『カテドラル』のここに掲げた図版の左側は聖母マリアの手、右側は大天使ガブリエルの手ではないかしらと思った。すると、この作品の持つ比類なき威厳と美が激しく私に迫ってきた。

Photo

2009年9月13日 (日)

しどろもどろに吾はおるなり 方代さんの歌

わが家で最も愛されている現代歌人は山崎方代(ほうだい)(1914-1985)さんかもしれない。

 「こんなところに釘が一本打たれいて いじればほとりと落ちてしもうた」

釘が「ぽとりと」ではなく「ほとりと」と落ちた。それを捉えたのは、目でも耳でもない。(方代さんは戦地で負傷しほとんど目が見えなかったらしい。)気配を感じとった方代さんの皮膚感覚(=心)なのである。

 「こんなにも湯呑茶碗はあたたかく しどろもどろに吾はおるなり」

他人の好意にすがりながら一組の食器、湯飲茶碗と土瓶だけで蝋燭の灯りのもと、無一物の生涯を送った方代さんである。熱いお茶をそそいた湯呑のぬくもりに、ほとんどうろたえてしまったのである。

 「なるようになってしもうたようである 穴がせまくて引き返せない」

私のブログのサブタイトルは『もぐらさんの暗中模索』であるが、方代さん、わたしも引き返せない歳になりました。方代さんの歌を読むと、ぷっと吹き出してしまう。それから、しみじみと人生がいじらしくなる。そして、方代さんに随(つ)いていきたくなる。

とはいえ、方代さんの友人で歌人の岡部桂一郎は、「方代の歌は素朴な境涯詠ではない。(・・・)現実の告白そのままを芸術として信用せぬ近代の毒をうけたものの一人」であるとし、小高賢は「そこにはしたたかな文学者魂が潜んでいる」と述べている。(小高賢編著 『現代短歌の鑑賞101』)

そう言われてみると、方代さんの

 「人生はまったくもって可笑(おか)しくて 眠っている間のしののめである」

という歌、古今集(恋637 読み人しらず)の

 「しののめのほがらほがらとあけゆけば おのがきぬぎぬなるぞかなしき」

(東の空が白みほのぼのと明けてきた。あなたとわたしの衣(きぬ)を打ち重ねて添い寝した夜でしたが、その夜の明けきらぬまに、それぞれが自分の衣を着てお別れしなければならないのはつらいことですね。)

がオーバーラップするとき、方代さんの詩魂の底から「哄笑」が響いてくるかのようである。

こんなもんじゃ 山崎方代歌集

2009年9月11日 (金)

横尾忠則さんのインタヴュー

画家横尾忠則さんのインターヴューをテレビで見た。うなずいたり、膝を打ったり、噴きだしたりしながら、時のたつのを忘れて見ていた。横尾さんは、まごうことなき<永遠の少年>だ。 

横尾さんのインタヴューアーに答える表情がいい。おしゃべりの喜びが目からあふれ出ている。そして、その語りは、天真爛漫にして勘所を押さえている。

グラフィック・デザイン事務所に勤めているとき、外出先からオフイスに帰ってくると、机の上におはぎのあんこがこびりついたお皿。おはぎが大好きな横尾さんは、当然「ぼくの分は?」と訊いた。「忘れてたわ。食べてしもた」との返事を聞いて、横尾さんの目から涙が猛烈な勢いで噴き出したそうだ。(自分でもその涙の勢いにびっくりしたのだろう。そして、多分「どうしていいかわからず」にいきなり上司の胸ぐらに喰らいついたそうだ。二十歳も過ぎ、すでに子持ちの横尾さんである。

70歳になって「引退宣言」をされたらしい。どてらを着てコタツにちょこんと座っている、そんな引退ではない。「したくないことはしない。したいことだけをする」という宣言だ。「引退のこつ」その一は、「肉体の求めに素直に従うこと」(心や分別は嘘をつくが、体は嘘をつかないから)。その二は「少年の心を失わないこと」。(少年のころ愛読した冒険小説を、最近(?)手に入れて大事にしまっている。今は読まない。わくわくする気持ちを失いたくないから)。まことに至言だと思う。

これからはPCPP:Public Costume Performance Painting.(コスプレ公開制作)で行くらしい。「天馬、空を往く」がごとき少年神の姿に、おおいに励まされた。

2009年9月10日 (木)

ピカソとドストイェフスキー

私が在職中、研究室の壁に20年ばかりも掛けていたのが、ピカソ「青の時代」の『アルルカン(道化)の家族』を描いた水彩画(複製)である。貧しいアルルカンの夫婦なのであろう。病弱そうな妻が、アルルカンの衣装のままの痩せた夫に、生まれて間もない赤ん坊を差し出している。赤ん坊を受け止めるアルルカンの手の表情が新しい家族を迎える歓びと、妻と子への愛といたわりを何より雄弁に語っている。画面全体の青い色調が貧しさゆえの憂愁を漂わせているが、アルルカンの衣裳のピンクの大きな水玉模様が希望を暗示している。青とピンクの澄んだ色彩の調和が美しい。

ドストイェフスキー『白痴』の中で、主人公のムイシュキン公爵が次のような言葉を語る。

「乳呑児をかかえたひとりの百姓女に出会った。それはまだ若い女で、赤ん坊も生まれてようやく六週間くらいみたいだった。すると、赤ん坊が母親に生まれてはじめて笑顔を見せたらしいんだ。(・・・)見てると、その百姓女はさも信心深かそうに十字を切るじゃないか。『おかみさん、どうしたんだね?』(・・・)『いえ、あなた、はじめて赤ちゃんの笑顔を見た母親の喜びっていうものは、罪びとが心の底からお祈りするのを天上からごらんになった神さまの喜びと、まったく同じことなんでして』(・・・)じつに深みのある、デリケートな、真に宗教的な思想じゃないか。(・・・) 宗教的感情の本質というものは、どんな論証にどんな過失や犯罪にも、どんな無神論にもあてはまるものじゃないんだ。そんなものには、何か見当ちがいなところがあるのさ。いや、永久に見当ちがいだろうよ。」

ピカソの『アルルカンの家族』は、ドストイェフスキー『白痴』理解のもっともよき手引きであるような気がする。

Photo

2009年9月 9日 (水)

マルクス・アウレーリウス 『自省録』

折に触れて、ローマの哲人皇帝マルクス・アウレーリウス『自省録』(岩波文庫 神谷美恵子訳)を拾い読みしている。そしてそのたびに、いつも私のその時々の気分にぴったりと即した慰藉(いしゃ)と叱正(しっせい)のことばを見出す。

「踏み分け道」について書くとき、『自省録』の次のことばが、私をおおいに鼓舞してくれた。

「つねに近道をいけ。近道とは自然に従う道だ。そうすればすべてをもっとも健全に言ったりおこなったりすることができるであろう。なぜならばこのような方針は(労苦や争いや、ひかえ目にしておくとか虚飾を避けるとかいうすべての心づかいから)君を解放するのである」 (第4巻 51)

直往邁進、単刀直入、率直こそ、王道なのだ。しかし、これほど「言うは易く 行うは難き」ものもまた、ない。

自省録 (岩波文庫)

踏み分け道

人にも獣にも魚にも虫にも鳥にも、その棲むところには必ず道がある。道は生活の証しだからだ。翅(はね)や翼を持つ者たちは、私たち人間の目には見えない空の道を知っているのだ。

一夜にして雪(あるいは砂あるいは草)に覆いつくされすべての道がかき消された風景は、その無機的・抽象的な純粋さで私たちを粛然とさせる。しかし、その<無地のカンバス>と言っていい風景にひとすじ真っ直ぐにのびる<踏み分け道>は、私たちに生命の鼓動を伝えて慰めと励ましに満ちている。

わが宿は雪ふりしきて道もなし 踏み分けて訪(と)ふ人しなければ (『古今集』冬、読み人知らず)

<踏み分け道>のことをふと考えたのは、公園の緑地を取り囲んで美しく整えられた敷石・敷木の遊歩道をぼんやりと歩いていたときだ。その遊歩道は通勤者の駅への通路にもなっている。となると、一分一秒を争って電車に間に合せようと急ぐ人には当然、植栽の囲いは行く手を阻む障害物でしかない。植栽や緑地の、駅への近道を提供してくれる部分は、いつのまにか<自然と>踏み固められ無残な裸の地面に返る。とは言え、急ぐ通勤者を責められない気がする。なぜなら、そのような<踏み分け道>をいたるところで目にするからである。

都市の近郊で緑地や公園の整備が進んでいるのは、うれしい。私の住むマンションの近くにも、羽鷹池公園が整備された。ただ時おり、公園の整備が<自己目的化>していないかと危惧する。公園や緑地は抽象的な理念に即するのではなく、自然に即して整備してほしい。自然とは、もちろん外なる自然(環境)であると同時に、内なる自然(人間の心)でもある。

Weg

2009年9月 7日 (月)

拈華微笑(ねんげみしょう)

喫茶店で本を読んでいると、赤ん坊づれの若い夫婦が隣の席に座って、夫婦それぞれが勝手なことをしている。二人とも別々に夢中で携帯をいじっているかと思うと、いつのまにか夫はスポーツ紙を、妻はファンション雑誌を読みふけっている。(もちろん、それが喫茶店のごく普通の作法ですが・・・・)

乳母車に取り残さてこちらのほうをじーっと見ていた赤ん坊が、こちらの視線に向かって蕾(つぼみ)が開くように微笑みかけてくる。吸い込まれるような柔らかな微笑である。「拈華微笑だよね」とこちらも微笑み返す。

広辞苑によれば「拈華微笑」とは、「禅宗で、以心伝心。霊鷲山(りょうじゅせん)で説法した釈尊が、華を拈(ねじ)って大衆に示したとき、摩訶迦葉(まかかよう)だけがその意を悟って微笑し、それによって正しい法は迦葉によって伝えられたという」と説明されている。

もちろん私はお釈迦さまじゃないし、説法しているわけでもない。しかし、ほほえみを交わすだけで、わかりあえる世界がここにはあるじゃないと思って、ちょっと幸せな気分になる。ひょっとしたら、いやいやきっと、赤ちゃんが「釈尊」なのだ。

Photo

マンテーニャの『死せるキリスト』

ドストイェフスキー『白痴』の中に、ハンス・ホルバインの『キリストの屍』の絵が重要なモティーフとして登場する。そこを読みながら、私自身の子ども時代のある記憶がよみがえった。

父親の数少ない蔵書の一冊に、ルネッサンスから印象派までの西洋名画を集めた、当時としてはちょっと豪華な画集があった。小学生のころ、その画集をこっそり覗くのがひそかな(別に見ることを禁じられていたわけではないが)<歓び>であり、また<苦しみ>でもあった。、たとえば頬を赤らめて(?)アングルの『泉』を見ている自分の姿は絶対に他人には見られたくなかった。もう一枚、アンドレア・マンテーニャの『死せるキリスト』の図は、見るたびに子どもの私を青ざめさせた。そこには「死」が<ことば>としてではなく、生々しい、剥き出しの姿としてあったからである。いまだ<牧歌の世界を生きていた>少年は、アングルの『泉』に生(=性)の謎をかぎとったし、マンテーニャの『死せるキリスト』像を通じて、世界にはけっして架橋されない深淵のあることを慄きとともに予感したのだった。

その「泰西名画集」を父が知人に貸したことがあった。マンテーニャのキリスト像が近くにないということは、私には少しばかりほっとすることだった。そして、しばらくして帰ってきた画集からは、アングル『泉』が切り取られていた。残念だったが、これでおおっぴらに画集を見ることができるようになった。しかし、マンテーニャの呪縛はますます重みをました。

一枚の絵が、とりわけ子どもに対して持つ衝撃力には大きなものがある。魂の奥処(おくが)に深く根を張って、その子の人生を見えない力で突き動かし、ときにはその人生変えてしまうことがあるかもしれないと思う。

Andrea_mantegna_034

2009年9月 3日 (木)

『お祭りマンボ』と政権交代

今回の総選挙での政権交代は、画期的だと思う。国民の一人一人が政治への参加を身をもって実感したことが大きい。民主党のマニフェスト(公約)実現の成否が、これからは一票を投じた有権者一人一人の肩にかかってくる。わたしたちは「改革」を政治家に委ねたわけではないという自覚がないと、政権交代は単なる「お祭り騒ぎ」に終わってしまう。

美空ひばりに『お祭りマンボ』という楽しい歌がある。お祭り大好きなおじさんとおばさんが「ねじりはちまき、そろいのゆかた」で「ワッショイワッショイ」と、家(うち)が留守になっているのも忘れて浮れまくっている。しかし、その結末が悲しい。「お祭すんで 日が暮れて / 冷たい風の吹く夜は / 家を焼かれたおじさんと / へそくりとられたおばさんが / ほんに切ない ため息ばかり / いくら泣いても かえらない / いくら泣いても あとの祭りよ」

「いくら泣いても あとの祭りよ」と臍(ほぞ)を噛(かみ)たくないものである。

Photo_2 

« 2009年8月 | トップページ | 2009年10月 »

2017年7月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

星座 (リンク集)

無料ブログはココログ