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2009年7月11日 (土)

水の面(おも)ゆく 雲の影

私の右ひざの上に長さ6、7センチ、巾5ミリばかりの切り傷がある。50年以上も前の傷跡である。「めかくし電車ごっこ」とでも言えばいいのか、車掌が両手に持った1メートルばかりの2本の竹の棒で、目隠しをした運転手を操ってうまく走らせるという、私と弟が考案した遊びだ。弟の操縦で、運転手の私は目隠しのまま突進し鉄条網につっこんだ。半ズボンなものだから、深く刺さった鉄の棘が太ももを切り裂いた。私は小学校3年生で、小学校が放火で焼け落ちて近くの中学校に仮住まいしている頃のことだ。その中学校の保健の先生が「あほな子らやな。ごんたして」と嘆息しながら、懸命に手当てをして下さった。何週間か保健室に通って、縫わずに直った。(安田先生、ほんとうにありがとうございました。)先生のやさしさが心に沁みた。そして、鉄条網の怖さ、痛さが。

もちろん、そんなばかげた遊びは「やめなさい」と私も言う。しかし、あの頃、体に残った傷を子どもは勲章のように見せびらかしていたものだ。

子どもの頃、周囲の世界は危険に満ち満ちていた。小学校への通学路の途中に「赤坂池」という大きな灌漑池があって、下校時にはランドセルを背負ったまま高さ十メートルもある土手を這い上がって、池の岸に下りてフナやザリガニ(私たちはエビガ二と呼んでいた)を釣ったり、ヒシの実を採ったり、ときには手製の模型船を浮かべたりしていた。赤坂池だけではないが、付近の溜池で溺れ死ぬ子が隔年くらいにいた。田畑のいたるところに野ツボ(肥え溜、私たちはババタンゴと称していた)があって赤錆びたトタンがひょいとかぶせられているだけだった。

貧しい時代だったから、口に入るものは何でも、麦の穂であれ木の実であれ草の茎であれ見さかいなく口にした。落ちた柿を食べて疫痢で死んだ子もいた。自然の中で生きているということは、死(の危険)と隣り合わせているということだった。

ちなみに中学校の校歌は「光照りみつ赤坂の 水の面(おも)行く雲の影」で始まっていた。いかに輝かしくとも、雲の影を宿さぬ水面はないのである

*先日、久しぶりに訪ねてくれた友人が近くの羽鷹池の岸で「蒲(がま)の穂が出ていますよ」と教えてくれた。

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