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2009年7月24日 (金)

耳について

地下鉄千里中央駅に「アストリア」という喫茶がある。そこのトンカツサンドは美味い。先日、娘が「アストリアのトンカツサンド、耳つきのまま食べたい」と言った。息子の場合はマスターが「耳、つけときましょか?」と訊いてくれるらしいが、淑女(?)にはさすがにそんなことは訊かないらしい。「パンは耳が美味しいのに」というのが娘の持論なのだ。

パンに耳があるように、お札にも耳がある。「耳をそろえてお返しいたします」という。人間の耳は何とも寡黙で控えめだ。しかし意外に自己主張しているようでもあり、考えようではまことに扱いにくい身体部品だ。何故なのか?

「耳」とここで言っているのは、聴覚器官の全体ではなく、「外耳(耳介、耳たぶ)」のことである。耳の形状は人ごとに違っている。耳紋というものがあれば、指紋と同じように人を同定する有力な根拠になるはずだ。

犬は聞き耳を「立てる」。外耳を有する哺乳類としてはめずらしく、人の耳はふつう「立ち」も「動き」もしない。人の外耳はいわば退化しているのである。視覚の優位、それに伴う知的能力の発達が耳たぶを何だか無用の長物のようにしてしまったかに見える。しかし、はたしてそうか。

人間の耳たぶもまた、パラボラ・アンテナのように集音装置として機能しているばかりでなく、この精妙な軟骨組織はじつは鼓膜が捉えることのできない音を捉えて、人間の身体全体に響かせているのではあるまいか。それは、「何を」ではなく「いかに」聴くかという、個の存在の根底に関わっているように思われる。

外耳(耳たぶ)は、個の内奥の根底が外部に露出したものなのではないか?そう考えると、「小奴といいし女の やわらかき 耳朶(みみたぼ)なども忘れがたかり」(啄木)という耳のエロティシズムも、デヴィッド・リンチ監督の映画『ブルー・ベルベット』冒頭の切り取られた耳のおぞましさも、耳の造形にこだわり続けた三木富雄の彫刻も、理解できるように思われる。

エウリーディケーを求めて冥界へ下った音楽の神オルフェウスは、耳道の闇を下ったのでははあるまいか。

図版はカミーユ・コローの『冥府のオルフェウス』

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