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2009年7月27日 (月)

耳について ――その3

六十を過ぎてから聴力の衰えを自覚するようになった。一人のときはテレビの音量が大きくなった。とくに多人数の会話で人声が交錯するときなど、聞き取りにいささか難渋するることもある。会話に加わって的外れな口を挿しはさみかねず、勢い寡黙になる。家族に言わせると、「都合の悪いこと、嫌なことには聞こえん振りしてはるだけ」ということになる。「まあ、それもええやん」と開き直っている。

『論語』のよく知られた詞章(ことば)に、「六十而耳順」というのがある。「四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲するところに従いて矩(のり)を踰(こ)えず」である。孔子先生とは大違いで、私など四十にして惑乱、五十にして暗中模索、六十にして耳遠しである。七十にして心の欲するままに迷惑三昧とならぬように心せねばなるまい。

それにしても、「耳順」とは何の謂か、以前から気になっていた。順は素直であるということだから、「耳が素直になる」ということだろう。耳が年齢と身体の衰えに素直になり、心のままに聞きたいことを聞くのが私の場合だが、真意はもちろんそうではないらしい。『論語』研究の泰斗加地伸行先生は「(苦悩の道を歩んだ経験からか)六十歳ともなると、他人のことばを聞くとその細かい気持ちまで分かるようになった」と訳しておられる。なるほどと納得し、さすがに孔子様だと思った。「耳順」とは、耳が他者の語ることばに素直に細やかに寄り添うことなのだ。他者のことばだけではなかろう。人籟・地籟・天籟のすべてに幼な子のように聴き入ることなのだ。そのとき、天体(コスモス)が私の身体の奥深くで秘めやかな交響楽を奏でることであろう。

*人籟(人の鬼と笛の関係性で出る音)/ 地籟(風と地上の木々や無数の穴の関係によって出る音)/ 天籟(さまざまなものが相互の関係の中で奏でる音)

論語 (講談社学術文庫)   

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