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2009年7月17日 (金)

小学校 炎上す

『あっ トンカチ先生歩いてはる』(越野誠一郎回想録)で桜井谷小学校がほぼ全焼したのが、昭和28年5月19日であったことがわかった。もう少し<寒い>時節だとばかり思っていた。私は3年生になったばかりだった。深夜11時頃、「学校が燃えてる」という声で寝まきのまま外に飛び出した。自宅は学校から西へ500メートルくらい離れた坂の上にあったから、眼下に巨大な炎が立ち上っているのが間近かに見えた。歯の根が合わず上の歯と下の歯がぶつかって激しく鳴った。膝のお皿が踊って、まっすぐに立っていられなかった。校舎は、戦前の「国民学校」当時のままで黒いタールを塗った木造だったから、火のまわりが早く本館14教室が瞬時に燃え落ちた。別棟の2教室と講堂、そして給食の配膳室だけが延焼を免れた。翌朝、まだくすぶり続ける焼け跡を前に肩を震わせて号泣する校長先生の姿を見た。冬景色のような寒々とした光景だった。

火災は3年生男子(私のクラスメート)の放火によるものだったことがやがて判明した。その子(S君としておこう)に対して「日ごろから学級の中で、耐えがたい悪口による差別を受けていたことがわかった」とトンカチ先生は回想録に書いておられる。当夜の宿直だった先生の無念と怒りは想像に余りある。しかし「耐えがたい悪口による差別」というクラスの生徒に対する非難には、その一員であったものとして違和感がある。S君は引越してきて間がなかった。そして、放火の少し前に父親が日本刀で殺人事件を起こしていた。遺体を掘り起こす作業を遠くから眺めていた子どもたちにはあまりにも衝撃的な事件だった。クラスの生徒たちがS君に怯(おび)えに似た感情を抱いたのは自然なことだった。なぜ学校が早急に適切な措置を講じなかったか、不思議と言えば不思議なことだった。少なくともそうした感情を汲んで、それをコントロールしプラスの方向に導くのは、とりわけクラス担任(トンカチ先生ではない)の務めだった。言うは易く、行うは難いことを承知しつつ、なおそれがなされていなかったと、当時を振りかえって思う。

クラス担任のN先生は、しつけにとりわけ厳しい女教師だった。いたずらをするとキッと眉間に青筋が立ち、声が尖った。小学校が燃えて、400メートルばかり離れた中学校に仮住まいするようになって、給食は生徒が毎日運ばなければならなかった。あるとき、私と相方の二人がおかずのバケツを運ぶ当番に当たった。よく晴れた日で、中学校への坂道の途中の赤坂池で釣り人が糸を垂れていたのが不運だった。ちょっとひと休み、<浮き>をじっと見つめているうちに時間の経つのを忘れてしまった。はっと我に帰って大急ぎで教室に戻ってくると、青筋のたったN先生の顔が見えた。すでに昼休みが終わって5時間目が始まっていた。しかし、クラス全員が給食のお預けをくらって、私たちの到着を横目に硬い表情でひと言も発しなかった。「二人は食べなくていい。廊下に立っていなさい」と尖った声が飛んできた。そのときから、私は先生にとことん疎(うと)まれた。

しかし、手前勝手な理屈を言わせてもらえば、給食を運ぶ子らが戻ってこなかったら腹を立てる前にまず、その子たちに事故でもあったのではと案じて迎えに来るなり、迎えを出すなりするのが担任の務めではあるまいか。N先生に子どもの気持ちを思いやる心の温(ぬく)もりがもう少しあれば、不幸な放火事件は起きなかったと、私は今も思っている。

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