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2009年7月24日 (金)

耳について―― その2

梅崎春生の『桜島』は、終戦まで1ヶ月余の時期、特攻の基地が置かれた桜島への転属を命じられた若い下士官村上兵曹の物語である。坊津から徒歩で枕崎へ、そこから汽車とバスを乗り継いで桜島へ向かうのである。とある町でバスの便を逃した。わびしい町の駅裏の妓楼にのぼると、

 (たった一人の)「妓(おんな)には、右の耳がなかった。(・・・)女は顔の半分を絶えず私の視線から隠すようにしながら、新しく茶をいれた。にわかに憤怒に似た故知らぬ激しい感傷が、鋭く私の胸をよぎった。『耳がなければ、横向きに寝るとき便利だね』 このような言葉を、荒々しい口調で投げてみたくてしようがなかった。」

 「『桜島?』  妓は私の胸に顔を埋めたまま聞いた。『あそこはいい処よ。一年中果物がなっている。今行けば、梨やトマト。枇杷はもうおそいかしら』 『しかし、私は兵隊だからね。あるからといって勝手には食えないさ』 『そうね。可哀そうね。―‐ほんとに可哀そうだわ』 妓は顔をあげて、発作的にわらい出した。しかしすぐ笑うのを止めて、私の顔をじっと見つめた。『そしてあなたは、そこで死ぬのね』 (・・・) 『ねえ、死ぬのね。どうやって死ぬの。よう。教えてよ。どんな死に方をするの』 胸の中をふきぬけるような風の音を、私は聞いていた。(・・・)『お互いに不幸な話は止そう』 『わたし不幸よ。不幸だわ』 妓の眼に涙があふれて来たようだった。瞼を閉じた。切ないほどの愛情が、どっと胸にあふれた。歯を食いしばるような気持ちで、わたしは女の頬に手を触れていた。」

生きて終戦を迎え塹壕を出る日、毛布の<耳を揃えて>たたみながら、村上兵曹は毛布にも耳があるのにと思い、耳をなくした妓へのいとおしさが胸にあふれて来た。不在の耳をめぐって、エロス(愛の欲動)とタナトス(死の欲動)が交錯する不可思議な物語であった。

 桜島・日の果て

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