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2009年7月

2009年7月31日 (金)

木について(3) ヴァレリー『樹についての対話』

『岩波古語辞典』によれば「根(ね)」は「ナ(大地)」の転(音変化)であると書かれている。「根の国」とは「黄泉(よみ)の国」、「死者の赴く国」でもある。天空に亭々と聳え立つ樹木が、大地にどこまでも深く根を伸ばしていることを忘れてはならないだろう。

ヴァレリーの『樹についての対話』(哲人ルクレティウスと葦笛を吹く牧童ティティスの対話)は、豊かな叡智を湛(たた)えて美しい。

 ルクレティウス (樹々は)生き生きとした大河だ、そのかずかずの源は大地の暗い塊のなかに潜って、そこに彼らの神秘な渇(かつ)えの道を見出すのだ。(・・・)湿気に誘われて、ますます細くなり、かつて生きたあらゆるものを溶かし込んでいる重々しい闇夜を浸(ひた)す水の、ほんのわずかな潤いまでも呑みつくそうとして、細い髪のように乱れもつれてゆく。(・・・)死者と土竜(もぐら)と蛆虫(うじむし)の帝国のなかに、樹の作業は、奇異な地下の意志の力を差しいれるのだ。

 ティティス おお、ルクレティウスよ!・・・おことばを聞きながら私が何を想ったか、申しあげましょうか?千もの細い繊維の形で、活き活きとした実質を影のなかへと差し入れて、眠る大地のなかから液汁を汲みあげてゆく、あなたの油断ならぬ樹から、わたしの想い浮かべるのは・・・愛なのです。(・・・)<樹>と<愛>と、それらはふたつとも、知覚できぬほどの芽から生まれて大きくなり、強くなって、ひろがり、枝を張ってゆく。けれど、それは空のほうへと(あるいは幸福のほうへと)昇れば昇ってゆくだけ、<わたしたちがそれと知らずにそうであるところのもの>の暗い実質のなかへ降りてゆかねばなりません。そこ、暗闇のただなかに、私が<涙の泉>と名づけたもの、つまり<言語を絶したもの>が見出されるのです。

まことに二人の対話者は、陽ざしを受けた無数の言の<葉>が魂のなかでざわめく言葉の樹>と化しているかのようである。

エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話 (岩波文庫)

2009年7月30日 (木)

木について(2) オヴィディウス『変身譚』

ギリシア神話の楽人オルフェウスが七弦の竪琴(リラ)を爪弾(つまび)くと、その楽の音に誘われて山野の鳥獣がこぞって彼のまわりを取り囲んだ。樹木までが根を引きずって彼のもとに駆けよって、木蔭をさしのべた。それにしても、木が駆けるとはただごとではない。古代世界で楽音が、神の声として機能していたことを窺わせる。オヴィディウスはそれらの木々の名を逐一挙げている。

 「樫の木がやってくる。パエトンの姉妹たちが変身したポプラたちもやってくる。高い葉をつけた柏、しなやかな菩提樹、山毛欅(ぶな)、処女ダプネがなり変った月桂樹、――それからもろい榛(はしばみ)、槍の柄に使われるとねりこ、こぶのない樅(もみ)、たわわに実をつけるうばめがし、人目を楽しませるプラタナス、斑(ふ)入りの葉をもつ楓(かえで)。さらには、河辺に生える柳や、同じく水を好む蓮(ロートス)、常緑の黄楊(つげ)、ほっそりとした御柳(ぎょりゅう)、緑と黒の実をつけるミルテ(てんにんか)、黒い実しかつけない忍冬(すいかずら)がつづく。まといつく常春藤(きづた)、巻きひげもつ葡萄樹、その葡萄樹に絡みつかれた楡(にれ)、ななかまど、えぞまつ、赤い実をつけた野いちご――そんなものも、オルフェウスを慕い寄る。」(岩波文庫 オウィディウス『変身物語』)

オヴィディウスの「語り」は、それぞれの木の特質を簡潔に的確に捉えて比類がない。オルフェウスの竪琴の音に誘われて、それぞれの木がそれぞれに独自な精妙な葉擦(はず)れの音を響かせているかのようである。

ちなみにバーナード・エヴスリン『ギリシア神話小事典』(社会思想社 現代教養文庫)では「木々も大地から抜け出し、根を足がわりに跳びはねながら音楽を奏でるオルペウスのあとに従った」と記されている。エヴスリンのこの『小事典』は、まことに小著でありながら、解釈のユニークさ、語りの巧みさで類書の追随を許さない。 (挿画は、ロダンの彫刻オルフェウス。)

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木について 「木は大地の毛であった」説

古代学者西郷信綱氏の『日本の古代語を探る――詩学への道』に「木は大地の毛であった」という説が述べられていて、心揺さぶられた。『日本書紀』にスサノオの次のような説話が記されているそうだ。

 「スサノオ(・・・)乃(すなわ)ち鬚髯(ひげ)を抜きて散(あか)つ。即ち杉に成る。又、胸の毛を抜き散つ。是、檜に成る。尻の毛は、これ槙(まき)に成る。眉の毛は是樟(くす)に成る。已(すで)にして其の用いるべきものを定む。乃ち称(ことあげ)して曰はく、『杉及び樟、この両の樹は、以て浮宝(うくたから=船)とすべし。檜は以て瑞宮(みつのみや)を為(つく)る材(き)にすべし。槙は以て顕見蒼生(うつしきあおひとくさ=人民)の奥津棄戸(おくつすたえ=棺)に将(も)ち臥(ふ)さぬ具にすべし。』」

西郷氏は言語学的な考証を重ねた上で、「かつて木は大地の毛であった」として、「もし森や林の木々が大地の毛であったら、『木は木、金は金』としか見ることのできぬ私たちの魂の荒涼を何ほどか癒してくれそうな気がする」と書いておられる。草木をみな「毛」と呼ぶ方言地帯もあるらしい。そして「草木咸能言語(そうもくみなよくものいう」という『神代記下』の詞を引いておられる。草木の語ることばを、われわれは次第に聞き取ることができなくなっている。

ところで「木が毛」であったら、「毛は木(草木)」でもある。毛は肉体という大地に生える。毛は肉体という内なる闇に深く根を張っている。われわれが恐怖に直面するとき「総毛立つ」のはそのせいなのだ。そして、われわれが激しい怒りに捕らえられるとき、知性や意識を経ずに神の怒りが髪の毛に下って肉体を震わせる。すなわち「怒髪天を突く」のである。

木が毛なら、身は水(み)、地は血かしら、などと知的好奇心をいたく刺激される西郷説だが、思いつきを言い散らすのは卵を取りに入って、ひよこの「毛」だらけで鳥小屋から出てくるようなものだろう。

日本の古代語を探る―詩学への道 (集英社新書)

2009年7月27日 (月)

耳について ――その3

六十を過ぎてから聴力の衰えを自覚するようになった。一人のときはテレビの音量が大きくなった。とくに多人数の会話で人声が交錯するときなど、聞き取りにいささか難渋するることもある。会話に加わって的外れな口を挿しはさみかねず、勢い寡黙になる。家族に言わせると、「都合の悪いこと、嫌なことには聞こえん振りしてはるだけ」ということになる。「まあ、それもええやん」と開き直っている。

『論語』のよく知られた詞章(ことば)に、「六十而耳順」というのがある。「四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲するところに従いて矩(のり)を踰(こ)えず」である。孔子先生とは大違いで、私など四十にして惑乱、五十にして暗中模索、六十にして耳遠しである。七十にして心の欲するままに迷惑三昧とならぬように心せねばなるまい。

それにしても、「耳順」とは何の謂か、以前から気になっていた。順は素直であるということだから、「耳が素直になる」ということだろう。耳が年齢と身体の衰えに素直になり、心のままに聞きたいことを聞くのが私の場合だが、真意はもちろんそうではないらしい。『論語』研究の泰斗加地伸行先生は「(苦悩の道を歩んだ経験からか)六十歳ともなると、他人のことばを聞くとその細かい気持ちまで分かるようになった」と訳しておられる。なるほどと納得し、さすがに孔子様だと思った。「耳順」とは、耳が他者の語ることばに素直に細やかに寄り添うことなのだ。他者のことばだけではなかろう。人籟・地籟・天籟のすべてに幼な子のように聴き入ることなのだ。そのとき、天体(コスモス)が私の身体の奥深くで秘めやかな交響楽を奏でることであろう。

*人籟(人の鬼と笛の関係性で出る音)/ 地籟(風と地上の木々や無数の穴の関係によって出る音)/ 天籟(さまざまなものが相互の関係の中で奏でる音)

論語 (講談社学術文庫)   

2009年7月24日 (金)

耳について―― その2

梅崎春生の『桜島』は、終戦まで1ヶ月余の時期、特攻の基地が置かれた桜島への転属を命じられた若い下士官村上兵曹の物語である。坊津から徒歩で枕崎へ、そこから汽車とバスを乗り継いで桜島へ向かうのである。とある町でバスの便を逃した。わびしい町の駅裏の妓楼にのぼると、

 (たった一人の)「妓(おんな)には、右の耳がなかった。(・・・)女は顔の半分を絶えず私の視線から隠すようにしながら、新しく茶をいれた。にわかに憤怒に似た故知らぬ激しい感傷が、鋭く私の胸をよぎった。『耳がなければ、横向きに寝るとき便利だね』 このような言葉を、荒々しい口調で投げてみたくてしようがなかった。」

 「『桜島?』  妓は私の胸に顔を埋めたまま聞いた。『あそこはいい処よ。一年中果物がなっている。今行けば、梨やトマト。枇杷はもうおそいかしら』 『しかし、私は兵隊だからね。あるからといって勝手には食えないさ』 『そうね。可哀そうね。―‐ほんとに可哀そうだわ』 妓は顔をあげて、発作的にわらい出した。しかしすぐ笑うのを止めて、私の顔をじっと見つめた。『そしてあなたは、そこで死ぬのね』 (・・・) 『ねえ、死ぬのね。どうやって死ぬの。よう。教えてよ。どんな死に方をするの』 胸の中をふきぬけるような風の音を、私は聞いていた。(・・・)『お互いに不幸な話は止そう』 『わたし不幸よ。不幸だわ』 妓の眼に涙があふれて来たようだった。瞼を閉じた。切ないほどの愛情が、どっと胸にあふれた。歯を食いしばるような気持ちで、わたしは女の頬に手を触れていた。」

生きて終戦を迎え塹壕を出る日、毛布の<耳を揃えて>たたみながら、村上兵曹は毛布にも耳があるのにと思い、耳をなくした妓へのいとおしさが胸にあふれて来た。不在の耳をめぐって、エロス(愛の欲動)とタナトス(死の欲動)が交錯する不可思議な物語であった。

 桜島・日の果て

耳について

地下鉄千里中央駅に「アストリア」という喫茶がある。そこのトンカツサンドは美味い。先日、娘が「アストリアのトンカツサンド、耳つきのまま食べたい」と言った。息子の場合はマスターが「耳、つけときましょか?」と訊いてくれるらしいが、淑女(?)にはさすがにそんなことは訊かないらしい。「パンは耳が美味しいのに」というのが娘の持論なのだ。

パンに耳があるように、お札にも耳がある。「耳をそろえてお返しいたします」という。人間の耳は何とも寡黙で控えめだ。しかし意外に自己主張しているようでもあり、考えようではまことに扱いにくい身体部品だ。何故なのか?

「耳」とここで言っているのは、聴覚器官の全体ではなく、「外耳(耳介、耳たぶ)」のことである。耳の形状は人ごとに違っている。耳紋というものがあれば、指紋と同じように人を同定する有力な根拠になるはずだ。

犬は聞き耳を「立てる」。外耳を有する哺乳類としてはめずらしく、人の耳はふつう「立ち」も「動き」もしない。人の外耳はいわば退化しているのである。視覚の優位、それに伴う知的能力の発達が耳たぶを何だか無用の長物のようにしてしまったかに見える。しかし、はたしてそうか。

人間の耳たぶもまた、パラボラ・アンテナのように集音装置として機能しているばかりでなく、この精妙な軟骨組織はじつは鼓膜が捉えることのできない音を捉えて、人間の身体全体に響かせているのではあるまいか。それは、「何を」ではなく「いかに」聴くかという、個の存在の根底に関わっているように思われる。

外耳(耳たぶ)は、個の内奥の根底が外部に露出したものなのではないか?そう考えると、「小奴といいし女の やわらかき 耳朶(みみたぼ)なども忘れがたかり」(啄木)という耳のエロティシズムも、デヴィッド・リンチ監督の映画『ブルー・ベルベット』冒頭の切り取られた耳のおぞましさも、耳の造形にこだわり続けた三木富雄の彫刻も、理解できるように思われる。

エウリーディケーを求めて冥界へ下った音楽の神オルフェウスは、耳道の闇を下ったのでははあるまいか。

図版はカミーユ・コローの『冥府のオルフェウス』

土門拳 『風貌』(正・続・続々)

土門拳の『風貌』は明治・大正・昭和の文化人86人を撮った写真集である。日本近代文化を担った人々と言っていい。土門は明治42年の生まれ。彼が26歳から41歳まで、つまり第2次大戦中から戦後にかけて撮影したもので、写っている人々のほとんどが老人である。写真家土門の被写体に向き合う捨身の構えには鬼気迫るものがある。『風貌』3巻は、近代日本史の「現場」にわれわれを立ち合わせてくれる。『風貌』3巻を知らずして、近代日本を語るなかれ、と思う。土門のカメラは残酷なまでに、被写体の肌のつや、しわやしみ、涙腺のゆるみにまで肉薄する。そうして、巨魁たちの内面をあぶりだしてみせる。無残といえば無残だが、真実とは多くが無残なものだ。

土井晩翠を撮った写真がある。亡くなる3年前、当時すでに病重篤で床にあった晩翠だったが、撮影当日はきちんと羽織袴に着替え、ベッドの傍らの籐椅子に威儀を正して座っておられた。与えられた時間は少ない。「さすがにシャッターの合間合間には、苦しそうな息を大きく吐かれるのだった。フト、そこに僕は病中の老詩人の切ないほどの真実を感じた。それからは、先生の呼吸をジッと計って、息を抜かれた瞬間に抜き打ちにシャッターを切った。他人の目には残酷な所業に見えたかもしれない。しかし僕にとっては、この老詩人が生き抜いて来た八十年の強靭な生命力をフィルムに造形しようとすれば、そうするより仕方がなかった。」

土門の文章は、洒脱ななかに、有無を言わせず人を納得させる気迫に満ちている。土門もまた、まちがいなく近代日本文化の巨魁である。

講談社文庫 土門拳 『風貌』(正・続・続々)は現在絶版のようである。

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2009年7月23日 (木)

もう一人のマリリン サマンサ・モートン

私が今いちばん<入れあげている>女優は、イギリス人俳優サマンサ・モートンである。ハーモニー・コリン監督『ミスター・ロンリー』(2007)で彼女を見初めたのは、つい最近のこと。「おっぱいがふくらみ始めてからずっと」マリリン・モンローのものまね芸で生きてきた女(サマンサ・モートン)が、「生れ落ちてからずっと」マイケル・ジャクソンと自己同一化してしか生きられない若者(ディエゴ・ルナ)とパリで出会った。マリリンはマイケルをものまね芸人たちの共同生活(スコットランドの湖沼地方の共同農場)に誘う。彼らは自前で小屋をつくり、ビッグな興行を目論んでいるのだ。チャプリン、サミー・デイヴィスJr.マドンナ、ジェームス・ディーン、シャーリー・テンプル、リンカーン、赤頭巾ちゃん、エリザベス女王、ローマ法王のそっくりさんたちがマイケルを温かく迎えてくれた。シャイで不器用で「他者としてしか」生きられない人たちとの滑稽で、温かで、悲しい心の交流。チャプリン芸人を愛しつつ、いつしかマイケルに心が傾きはじめるマリリン。サマンサ・モートンは、そんなマリリンの悲しみと苦悩を、まなざしと口元の表情で語ってみせた。「心に秘められた感情は口のまわりに出る」とは写真家土門拳の言葉だが、サマンサの口元の表情は語りつくせない感情の奥行を表現して秀逸だった。

『ギター弾きの恋』(1999)では唖者として表情と身ごなしでしか語れない娘の切ない恋を見事に演じきった。『コントロール』(2007)では、天才ロック歌手の破滅的な人生に呑み込まれるイギリス下層階級の娘を演じて印象的だった。

 Movie/ミスター ロンリー

『野菊の墓』と矢切の渡し

先日、病院に行く途中、天満橋のジュンク堂書店に立ち寄った。文庫本の棚に伊藤左千夫『野菊の墓』を見つけて買ってしまった。そして、待ち時間に読んでしまった。15歳の政夫と2歳年上の従姉(いとこ)の民子の初々しい恋と、その悲しい結末を描いている。

母親の心遣いで綿摘みに出た日の二人の細やかな交情には、美しい自然描写と綯(な)い合わされて心を打つものがある。秋の早い日没に追いかけられるように家路を急ぐと、

 「半分道も来たと思う頃は十三夜の月が、木の間から影をさして尾花(おばな)にゆらぐ風もなく、露の置くさえ見えるような夜になった。今朝は気がつかなかったが、道の右手に一段低い畑には、蕎麦(そば)の花が薄絹を曳き渡したように白く見える。こおろぎが寒げに鳴いているにも心とめずにはいられない。」

夕食に遅れて帰った二人の仲を周囲が咎(とが)めだて、母親も二人をかばいきれない。数日後、政夫は千葉の中学へ発ってゆく。

 「船で河(江戸川)から市川へ出るつもりだから、17日の朝、小雨の降るのに、一切の持物をカバンひとつにつめ込み民子とお増に送られて矢切の渡しへ降りた。(・・・)民子は今日を別れと思ってか、髪をさっぱりとした銀杏返しに薄く化粧をしている。煤色と紺の細かい弁慶縞で、羽織も長着も同じい米沢紬(よねざわつむぎ)に、品のよい友禅縮緬(ちりめん)の帯を締めていた。襷(たすき)を掛けた民子もよかったけれど今日の民子は又一層引き立って見えた。」

そのとき民子は自分を待ち受けている運命を知っていた。心に染まぬ男との結婚、妊娠、そして産褥のためについに政夫と再会することなく死んでしまう。

もう10年近く前、当時葛飾柴又に住んでいた友人に案内されて矢切の渡しを渡し船で越え、松戸の『野菊の墓』の舞台を歩いた。石碑と小さな記念館があった。あたりは宅地化が進んでいたが、そこここに残る潅木の茂みが当時の面影を留めているようにも思われた。

じつは私が最初に自分の小遣いで買った文庫本が『野菊の墓』(新潮文庫)で、当時30円だった。50年前の昭和32年(1957)、中学1年生の頃のことである。お金のない私にも手が届いた。野菊をあしらったカバーが美しかった。今も本棚のどこかに埋もれているはずだ。新潮文庫版には現在も同じカバーがついていているのが嬉しい。それに286円という安さだ。編集部に『野菊の墓』はそのままにしておきたいというこだわり(愛着)をもつ人がいるのだろう。出版社や書店は、文化を次世代へと受け渡す「渡し舟の船頭さん」みたいなものだと思う。

野菊の墓 (新潮文庫)

2009年7月17日 (金)

小学校 炎上す

『あっ トンカチ先生歩いてはる』(越野誠一郎回想録)で桜井谷小学校がほぼ全焼したのが、昭和28年5月19日であったことがわかった。もう少し<寒い>時節だとばかり思っていた。私は3年生になったばかりだった。深夜11時頃、「学校が燃えてる」という声で寝まきのまま外に飛び出した。自宅は学校から西へ500メートルくらい離れた坂の上にあったから、眼下に巨大な炎が立ち上っているのが間近かに見えた。歯の根が合わず上の歯と下の歯がぶつかって激しく鳴った。膝のお皿が踊って、まっすぐに立っていられなかった。校舎は、戦前の「国民学校」当時のままで黒いタールを塗った木造だったから、火のまわりが早く本館14教室が瞬時に燃え落ちた。別棟の2教室と講堂、そして給食の配膳室だけが延焼を免れた。翌朝、まだくすぶり続ける焼け跡を前に肩を震わせて号泣する校長先生の姿を見た。冬景色のような寒々とした光景だった。

火災は3年生男子(私のクラスメート)の放火によるものだったことがやがて判明した。その子(S君としておこう)に対して「日ごろから学級の中で、耐えがたい悪口による差別を受けていたことがわかった」とトンカチ先生は回想録に書いておられる。当夜の宿直だった先生の無念と怒りは想像に余りある。しかし「耐えがたい悪口による差別」というクラスの生徒に対する非難には、その一員であったものとして違和感がある。S君は引越してきて間がなかった。そして、放火の少し前に父親が日本刀で殺人事件を起こしていた。遺体を掘り起こす作業を遠くから眺めていた子どもたちにはあまりにも衝撃的な事件だった。クラスの生徒たちがS君に怯(おび)えに似た感情を抱いたのは自然なことだった。なぜ学校が早急に適切な措置を講じなかったか、不思議と言えば不思議なことだった。少なくともそうした感情を汲んで、それをコントロールしプラスの方向に導くのは、とりわけクラス担任(トンカチ先生ではない)の務めだった。言うは易く、行うは難いことを承知しつつ、なおそれがなされていなかったと、当時を振りかえって思う。

クラス担任のN先生は、しつけにとりわけ厳しい女教師だった。いたずらをするとキッと眉間に青筋が立ち、声が尖った。小学校が燃えて、400メートルばかり離れた中学校に仮住まいするようになって、給食は生徒が毎日運ばなければならなかった。あるとき、私と相方の二人がおかずのバケツを運ぶ当番に当たった。よく晴れた日で、中学校への坂道の途中の赤坂池で釣り人が糸を垂れていたのが不運だった。ちょっとひと休み、<浮き>をじっと見つめているうちに時間の経つのを忘れてしまった。はっと我に帰って大急ぎで教室に戻ってくると、青筋のたったN先生の顔が見えた。すでに昼休みが終わって5時間目が始まっていた。しかし、クラス全員が給食のお預けをくらって、私たちの到着を横目に硬い表情でひと言も発しなかった。「二人は食べなくていい。廊下に立っていなさい」と尖った声が飛んできた。そのときから、私は先生にとことん疎(うと)まれた。

しかし、手前勝手な理屈を言わせてもらえば、給食を運ぶ子らが戻ってこなかったら腹を立てる前にまず、その子たちに事故でもあったのではと案じて迎えに来るなり、迎えを出すなりするのが担任の務めではあるまいか。N先生に子どもの気持ちを思いやる心の温(ぬく)もりがもう少しあれば、不幸な放火事件は起きなかったと、私は今も思っている。

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2009年7月16日 (木)

『あっ トンカチ先生歩いてはる』

越野誠一郎先生は私が桜井谷小学校5年、6年のときの担任である。克明小学校の校長を最後に退職、その後は趣味の木彫や書や合唱を楽しんでおられた。5年ほど前、70歳代の半ばに交通事故で亡くなられた。先生は千里園にお住いだった。健康維持のために近くをサイクリングされていたとき、トラックと衝突されたのだった。

私は勤務先の大学まで自転車で通っていたので、よく先生とお会いした。私の研究室に、丹波屋の<おはぎ>など持って立ち寄ってくださり、二人で「うまいな」と言いながら食べたことも何度かあった。先生の回想録『あっ トンカチ先生歩いてはる』(平成元年)が書棚の隅から出てきたので、ついつい読みふけってしまった。

その本に「冒険サイクリング」という表題で、私が友人のM君、T君と3人で出かけたサイクリングの顛末が書かれていた。6年生の10月、秋も深まってきた頃のこと。自転車を買ってもらったばかりのM君、T君に誘われて、京都までサイクリングしようということになった。私は自転車を持たなかったので、先生に計画を打ち明けて、「自転車借してください」と頼んだ。先生はずいぶん危惧されていたようだが、せっかくの夢をこわすのもかわいそうだと思われたのだろう、許してくださった。翌朝9時頃に出発、すでに茨木の安威川でお昼になった。弁当のあとふたたび京都に向かって走り出したが、ペダルを踏む足はすっかり重くなっていた。秋の日は釣瓶落としである。私たちは急に不安に捉えられて、高槻の手前でUターン。何かに追いかけられるように、半べそをかきながら帰路を急いだ。そのとき傾いた陽を背に西の方から近づいてくる先生のスクターが見えた。私たちの泣き笑い顔を見て、「よく、引き返してきたな」とほめて下さった。先生はその日一日中、地図と時計を見ながら過ごされていたのだった。 *下の写真は、先生が撮ってくださったもの。

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2009年7月13日 (月)

はるかかなたは 相馬の空か

『夜明け前』を読んでいたときむしょうに「木曾節」が聴きたくなって、市立図書館で『三橋美智也民謡全集』のCDを借りてきた。「木曾節」もすばらしかったが、三橋美智也の声は日本民謡の真髄を伝えて比類がないと思った。のびやかで、おおらかで、もちろん超絶技巧の持ち主なのだろうが、技というものを感じさせない。はてしなく広い空間を穏やかな風が悠々と吹き渡ってゆくかのようだ。

 はるかかなたは相馬の空か 相馬恋しや なつかしや(『新相馬節』)

その歌声が響き始めると、まだ訪れたことのない相馬の遠い空が私の目交(まなかい)にありありと浮かんでくる。この「遥けさ」こそが民謡の本質ではないかと思う。「はてしない空間の広がり」と言い換えてもいい。歌い手自身も知らない<遠く>から来た声に心を託し、<遠く>へと届けること、そして遥かな谺(こだま)を受け止めてそれと響き合うとき、そこにふるさとがまざまざと現出(幻出)して来るのである。

浦山桐郎監督『私の棄てた女』(1969)は、田舎娘で尽くす愛しか知らないミツが、政治活動に挫折した虚無的な大学生に弄ばれ棄てられる顛末を描いている。ミツが勤め先の酒席で「新相馬節」(だったと記憶する)を歌う場面が忘れられない。彼女の歌声が響くと、モノクロの画面が突如カラーに変わって、相馬野馬追の勇壮な情景が映し出された。遥か彼方のふるさとを思うミツの心情の哀切さが激しい力で迫ってきた。

*相馬野馬追の風景。「相馬盆歌」、「相馬流れ山」、「新相馬節」、 相馬は私の<ネバーランド>である。画像はヴィキペディアからお借りした。

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2009年7月11日 (土)

水の面(おも)ゆく 雲の影

私の右ひざの上に長さ6、7センチ、巾5ミリばかりの切り傷がある。50年以上も前の傷跡である。「めかくし電車ごっこ」とでも言えばいいのか、車掌が両手に持った1メートルばかりの2本の竹の棒で、目隠しをした運転手を操ってうまく走らせるという、私と弟が考案した遊びだ。弟の操縦で、運転手の私は目隠しのまま突進し鉄条網につっこんだ。半ズボンなものだから、深く刺さった鉄の棘が太ももを切り裂いた。私は小学校3年生で、小学校が放火で焼け落ちて近くの中学校に仮住まいしている頃のことだ。その中学校の保健の先生が「あほな子らやな。ごんたして」と嘆息しながら、懸命に手当てをして下さった。何週間か保健室に通って、縫わずに直った。(安田先生、ほんとうにありがとうございました。)先生のやさしさが心に沁みた。そして、鉄条網の怖さ、痛さが。

もちろん、そんなばかげた遊びは「やめなさい」と私も言う。しかし、あの頃、体に残った傷を子どもは勲章のように見せびらかしていたものだ。

子どもの頃、周囲の世界は危険に満ち満ちていた。小学校への通学路の途中に「赤坂池」という大きな灌漑池があって、下校時にはランドセルを背負ったまま高さ十メートルもある土手を這い上がって、池の岸に下りてフナやザリガニ(私たちはエビガ二と呼んでいた)を釣ったり、ヒシの実を採ったり、ときには手製の模型船を浮かべたりしていた。赤坂池だけではないが、付近の溜池で溺れ死ぬ子が隔年くらいにいた。田畑のいたるところに野ツボ(肥え溜、私たちはババタンゴと称していた)があって赤錆びたトタンがひょいとかぶせられているだけだった。

貧しい時代だったから、口に入るものは何でも、麦の穂であれ木の実であれ草の茎であれ見さかいなく口にした。落ちた柿を食べて疫痢で死んだ子もいた。自然の中で生きているということは、死(の危険)と隣り合わせているということだった。

ちなみに中学校の校歌は「光照りみつ赤坂の 水の面(おも)行く雲の影」で始まっていた。いかに輝かしくとも、雲の影を宿さぬ水面はないのである

*先日、久しぶりに訪ねてくれた友人が近くの羽鷹池の岸で「蒲(がま)の穂が出ていますよ」と教えてくれた。

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2009年7月 7日 (火)

七夕

今日は七夕。モノレールの門真駅に笹飾りが置かれ、願いを書き込んだ色とりどりの短冊や星飾りが揺れていた。何だかほっとした。

七夕と書いて「たなばた」と訓(よ)むのは、機織り機を表す棚機(たなばた)から来ているらしい。織女を「たなばたつめ」とも訓む。織女と牽牛が天の川をはさんで年に一度7月7日の夜に会うという七夕伝説は奈良時代に日本に伝わった。大宝2年(702)、第7次遣唐使の一行に加わって唐に渡った山上憶良に、

 ひさかたの天の河瀬に船浮(う)けて 今夜(こよい)か君が 我許(わがり)来まさむ

の歌がある。「星の船」に乗っての逢瀬である。

七夕の夜雨が降れば、川は水かさを増し、織女は牽牛のもとに行くことができない。織女が悲しむのを見て、かささぎの群れが翼を広げ天の川に橋をかけ、織女を向こう岸に渡すのだという。

「天の川」は大阪府交野市にある。じつは天の川は全国各地にあるのだが、交野の天の川は『伊勢物語』(第82段)に登場する。由緒来歴の正しさから言えばピカイチである。

 狩り暮らし たなばたつめに宿からむ 天の河原に我は来にけり(業平)

四季折々の行事が大型化しイベント化するにつれて、町内や村のような目と目、手と手、息と息が触れ合う小さな共同体から、つつましくとも心のこもった行事が消えていくのは何ともさみしい。  

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2009年7月 1日 (水)

牛蛙のセレナーデ

夜になると、お向かいの梨谷池で「牛蛙」さんがモーモーと鳴いている。

 牛蛙 牛蛙なりのセレナーデ(路塵)

 牛蛙 聴く耳もたぬ雌は去れ(路塵

最近は家の外に出る機会も減って、方寸の宇宙に耳を澄まし目を凝らす日々である。*ホテイアオイの花

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レモンの花

千里中央の植木市で、鉢植えのレモンを見つけた。いまレモンの思いのほか清楚な花を楽しんでいる。薄紫のふっくらとしたつぼみがはじけると、白い花が可憐だ。花はその日のうちに色あせて、二三日もすると花托に小さな果実が乗っかっている。

「君よ知るや南の国 レモンの花咲き 暗き葉かげに黄金色したる柑子はたわわにみのり」(ゲーテ 『ミニヨン』)

「黄金色したる柑子がたわわにみのる」日が楽しみだ。

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初蝉

7月1日の正午、クマゼミの初鳴きを聞いた。ひと声鳴いて、それっきり。

 初蝉や ひと声のあと 真昼闇(まひるやみ)(路塵)

 初蝉や 今日の生命の通り雨(路塵)

 初蝉や 耳道(じどう)の闇に潜(くぐ)るかな(路塵)

ここ数年関西地方ではクマゼミが、ミンミンゼミ、アブラゼミに取って代わった。子どものころ虫かごの中に、クマゼミがあると誇らしかった。緑の趐脈(しみゃく)を浮かび上がらせている透明な羽が美しかった。昆虫の生息分布にも年々変動があるようだ。しかし生息分布で覇権を獲得した種は、自ずからのようにオーラ(見えざる輝き)を失って行く。

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