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2009年6月

2009年6月27日 (土)

ライアンの娘

デヴィッド・リーン監督『ライアンの娘』(1971)は、私の最も好きな映画の一本である。

第1次大戦下、激化する対英独立闘争の渦中にあるアイルランドの寒村を舞台に、愛の情念に翻弄される娘の悲劇をまるで<荒々しく美しい自然の一齣(ひとこま)>のように描き出している。ロージー(サラ・マイルズ)は村の居酒屋の娘で、慕っていた小学校教師ショーネシー(ロバート・ミッチャム)と結婚する。しかし、年齢の離れすぎた夫との結婚は、彼女の思い描いていたものとは違っていた。夫との静かすぎる生活に飽き足らず、ロージーは駐留してきた英国軍将校との不倫に走る。

アイルランド西海岸ディングル岬の高い崖の上を歩む若い女の手から突風がパラソルを吹きさらってゆく。パラソルがまるで白い蝶のように身を翻しながら大西洋の逆白波立つ海原に落ちてゆく冒頭のシーンは、息をのむように美しく、忘れがたい。それは、大自然に向き合う人間存在の頼りなさ、はかなさ、と同時にその小さな存在の可憐さ、いじらしさを何より雄弁に語り尽くしている。

たそがれどき、自宅裏の英軍駐屯地に将校の姿を認めたロージーは、その人影に向かって白ユリの畑を駆け抜ける。彼女のスカートを染めた白ユリの黄色い花粉。それを見たとき夫は、すべてを悟ったのだった。

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2009年6月25日 (木)

「田園は文学に残った」か

三島由紀夫の『愛の渇き』は、終戦まもない昭和24年の豊中市米殿(めいでん)村(現在の旭丘、熊野町)を舞台にしている。三島24歳の作品である。夫を腸チフスで失った悦子が東京から米殿村の舅(しゅうと)のもとに身を寄せている。知的で都会的な虚無感の化身ともいうべき美貌の寡婦が、舅に身を任せながら、癒されない愛欲の渇きのままに園丁の三郎とも肉体関係を結び、はてに鍬(くわ)で三郎を撲殺する物語である。

豊中市を舞台にした文学作品というと、まず三島の『愛の渇き』である。それしかないと言った方がいいかもしれない。しかし、残念ながら『愛の渇き』の舞台が、どうしても豊中でなければならない必然性は作品からは感じられない。古い農村の急速な都市化による旧住民と新住民の意識の乖離は、当時の日本のいたるところで見られたはずだからだ。もちろん、その頃の大阪近郊の「ヌエ」的性格に悲劇の格好の素材を見て取った若き三島の才能には脱帽のほかないが。

ずいぶん以前にとある新聞で北摂文学探訪のようなシリーズがあって、『愛の渇き』を取り上げていた。そのときの見出しが「田園は文学に残った」であった。果たしてそうか。作品に描かれた田園風景は悦子の目を通して描かれたものである。現代人の虚無によって「脱田園化された」風景なのである。

「時折阪急電車の汽笛が響きわたって、夜の田園のおちこちにこだました。そんな時、電車は非常な速さで自分の巣へ帰ってゆく凶暴な鳴声の痩せたすらりとした夜の鳥数十羽を、いっせいに放鳥してすぎるように思われる。(・・・)その声におどろいて見上げると、きこえない遠雷の仄(ほの)めきが、夜空の一角に紺青を刷(は)いて消えるのもこの季節(9月・・・筆者)であった。」

まことに見事な描写であるが、田園はここでは、作中の悦子の「にせ日記」におけるように、痛ましくも抽象化されているのである。

愛の渇き(新潮文庫連動DVD)

2009年6月24日 (水)

やまもも

モノレール少路駅北側の街路樹は「やまもも」が多い。樹高はまだせいぜい二、三メートルだが、初夏のこの季節たわわに実をつけ、緑から黄色、黄色から赤、赤から赤紫へと熟してゆく。

「やまもも」というと、小学生のころ宮山の春日神社の森で「やまもも」を摘んだことを思い出す。五十数年前のことだ。宅地によって切り取られる以前、宮山の森はもっと広く深かった。薄暗い森にさまよい入ると、恐いくらいだった。今のようにフェンスで囲まれていなかったので、子どもが自由に立ち入ることができた。森の中央は窪地(くぼち)になっていて、折り重なった倒木や折れ枝のすきまに湧き水が少しだけ空を映していた。窪地の底に立つと周囲の傾斜地から、緑の闇が襲いかかってくるようだった。狸や野兎や狐、イタチも蛇もいた。夜になるとほーっ、ほーっというフクロウの不気味な声が遠くからでも聞こえた。

その森に三十メートルもあろうかという「やまもも」の大樹があった。上級生のガキ大将が木に登って、下で待っている私たちに「やまもも」の実を投げ落とした。ガキ大将以外、この木に登る「生意気」は許されていなかった。拾ったおびただしい実をどうしたのか。一つ二つかじってみて酸っぱくて顔をしかめたことだろう。家に持ち帰って、果実酒にしてくれジャムにしてくれなどという「贅沢な楽しみ」など「もってのほか」の貧しい時代だった。

いま、街路樹の「やまもも」がさかんに落果し、歩道を汚しているのを見ると、拾って帰って果実酒にしたいと思うが、公共のものだと思うとそうも行かない。「やまもも」を見るたびに、私は困ってしまう。

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K先生との、そして音楽との出会い。

K先生は私の小学校の音楽の先生で、どこかアンニュイな(けだるい)雰囲気を漂わせた大柄な美しい先生だった。ちょっと与謝野晶子にもアリダ・ヴァリにも似ておられたかな、と思うのは多分私の記憶の混乱だ。先生はいつも、忘れた記憶を呼び戻そうとされているかのような<遠いまなざし>で教室の生徒を見わたしておられた。その<まなざしの遠さ>が、そのころの私にはどこか秘密めいて思われた。

田舎の小学校の音楽室に大型の「電蓄」(それ以前は手回しの蓄音機。やがてステレオが電蓄にとって代わった)が入った。そこで、先生の授業はときにレコード鑑賞の時間になった。電蓄で最初に聴いたクラッシクは、バッハの『トッカータとフーガ ニ短調』、ストコフスキーの指揮するオーケストラ演奏だった。凄まじい音の奔流に、クラッシク音楽をはじめて聴く田舎少年は腰を抜かさんばかりだった。音楽との衝撃の出会い。それ以来、私は「今日もレコードが聴きたい」と授業のたびにK先生にせがんだものだった。しかし、たいていは「今度またね」と微笑みでいなされた。私たちの卒業式は、K先生の台本・演出で<音楽劇>形式で行われた。(それにしても音楽卒業式なんて、貧乏な時代だったけれど、今思うとあの頃の小学校には何とおおらかで爽やかな風が吹いていたことか!)先生はサイン・ブックに「H君、きっと喜んでくれていると思っています」と<贈る言葉>を書いて下さった。(そのサイン・ブックは今も机の引き出しに大切にしまわれている。)私たち卒業生はドビュッシー『牧神の午後への前奏曲』で入場した。何か誇らしく、少し面映(おもはゆ)かった。

卒業後、K先生とお会いすることはなかった。ある年(すでに私は高校生になっていた)先生からの年賀状に、「『かくも長き不在』を見た?」と書かれていた。その文字に私はふと心を衝(つ)かれる思いがした。『かくも長き不在』の映画は見ていなかったし、その内容も知らなかった。ただ、先生の「遠いまなざし」と、「かくも長き不在」というフレーズが、そのとき一つになった。少年と音楽との微苦笑を誘う出会いの意味を悟ったと言った方がいいのかもしれない。

夏ツバキが咲いていた。何と控えめで儚(はかな)げな花。

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2009年6月22日 (月)

カルガモ

昨日、千里川ぞいを散歩していたら、孤独なカルガモが足を流水にひたし、黙然と首をすくめて佇んでいた。カメラを向けても<我、関せず>。カルガモは何を想うのか、興味を引かれた。『動物シンボル事典』(ジャン=ポール・クレベール 大修館 1989)に次のような記述があったので、紹介しておこう。

  「自然は鴨の雄から声を奪うことによって、妻の言うことに反論できない従順な夫の形象を作りだした。だから口やかましい雌鴨に求婚するとき、雄鴨はただ頸(くび)を折り、足を折っておとなしく雌の前に立つだけだ。ちょうど、幸福な生活の幻想にたぶらかされて妻の言いなりになっている夫のように。その証拠に雄鴨の頸元(くびもと)は玉虫の緑色に包まれている。これは錯覚幻想を表徴する色である。」

ウーンと唸(うな)ってしまった。

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2009年6月21日 (日)

里池の自然と気が合うこと

わが家のヴェランダのすぐ前に、かつて豊中市北部に多かった灌漑池(私は「里池」と呼んでいる)の一つである「梨谷池」が広がっている。私たちがマンションに引っ越してきた25年前には周囲をぐるりと緑に取り囲まれていた。今は対岸に別のマンションが建ち、駐車場もできている。それでも春にはミモザや野イバラが池に雪崩落ちるように咲き、エノキ、ケヤキ、ポプラ、ハンノキ、ヤマナラシ、アウチ(栴檀)などの樹々が四季折々に美しい表情を見せてくれる。うだるような暑さの夏も、風が梢を吹き抜けていく日には葉ずれの音が耳に心地よい。秋にはとりわけ黄葉が家の中まで明るく照らしてくれる。小鳥のさえずりが聞こえてくると、ヴェランダに出て手すりから身を乗り出して、声の主を探す。こうもりがヴェランダの天井を塒(ねぐら)にしていたこともある。夕方になると、どこからともなく帰ってきた数十羽のシラサギがハンノキの高い樹冠にまるで白い花のように浮かび上がる。キンカンの実をヒヨドリに食われることもあれば、雀がヴェランダのバラの茂みで死んでいたこともある。ヴェランダの花たちはまちがいなく、梨谷池の自然と気(呼吸)を合わせることで生命を輝かせている。里池の小さいけれど豊かな自然のかたわらに<暮らして>みてはじめて、私たちの生活もまた誕生と死、成長と腐敗という自然の大きな循環の中に組み込まれていることを身をもって教えられた。

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姫うつぎ

「白い花が咲いてた」に掲げた花の写真、「風のたより」に姫うつぎであることを教えてもらいました。清楚でいて雅やか。今は枝さきに、わずかの花を残すだけになりました。

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2009年6月19日 (金)

踊る学僧たち

ずいぶん以前にテレビで見たのだが、チベット仏教の学僧たちがオレンジ色の僧衣を身にまとって大学の庭で踊りながら勉強し議論していた。向かい合った二人がステップを踏み、手を打ち鳴らしながらくるくる回っている。議論が白熱してくると、動きが激しくなる。不思議な光景だった。

ルソーが散歩しながら、スピノザがレンズを磨きながら、つまり身体を動かしながら思索したことよく知られている。身体と思索は切り離せないのである。しかるに、チベットの学僧は向かい合ってリズムを取りながら協同で思索を深めるのである。私はこの<すぐれた>風習を日本でも学校教育の現場に取り入れたらどうだろうと真剣に思う。

教室でそれをしたら、さぞ騒がしかろうから、運動場でも草原でもいい、外に出て大空の下でステップを踏み手を打ち鳴らして勉強し、議論するのはどうだろう。国語でも社会でも理科でも算数でもみなそうしたらいい。リズムは知性を統御すると同時に、リズムは感性と情念を解き放つ。窮屈な机と椅子に押し込められては、想像力の翼も自由に羽ばたくには、つらい。

話がいきなり飛んで恐縮だが、最近、ツバメの姿を見ることがグンと減った。そのかわりに、まるで一部の政治家か実業家のように大胆不敵で小賢しいガラスどもがのさばっている。「やったもの勝ち」の世界は真っ平ごめんである。若く美しいツバメたちよ、踊りながら学べ。

「紺の背広の初燕 / 地をするように飛びゆけり。(・・・)赤い襟飾、初燕 /  心も軽くまひ行けり」(杢太郎)

 

2009年6月18日 (木)

花であること

ラーゲリ(シベリアの強制収容所)の体験にこだわり続けた詩人石原吉郎(いしはらよしろう)の詩語には、肉を切らせて骨を切る白刃(はくじん)の一閃のような凄まじさがある。その彼が「花であること」のような詩を書いていることに、私は彼が背負い込んだ「悲劇」の深淵を垣間見る気がする。

花であることでしか / 拮抗できない外部というものが / なければならぬ / 花におしかぶさる重みを / 花のかたちのままに / おしかえす

そのとき花であることは / もはやひとつの宣言である

私はこの詩に込められた思念の深さに深く共感するものである。と同時に、「なければならぬ」といい、「もはやひとつの宣言である」といい、その<言葉づかい>にただならぬ<殺気>を感じ、「花でありたい」と思い続けて、ついに「花でありえなかった」詩人の悲劇を思う。私としては、せめてレイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウのように「タフ(hard)でなければ、生きていられない。やさしく(gentle)なければ生きている価値がない」という<決めぜりふ>くらいにとどめておいてほしかった。

 山吹の うの花の後(あと)や 花いばら(蕪村)

千里川ぞいにうの花が咲いていた。  

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天から降ってくるもの

富山県でおたまじゃくしとフナが空から降ってきた。近くで竜巻はなかったらしい。シラサギが巣に餌を運ぶ途中で落としたのではないかとか、果ては謀略説まで飛び出す始末。テレビのインタヴューで土地のおばあちゃんが「ありがたいことです。どちらに向かっても手を合わせたくなります」と答えていたのが、忘れられない。「在り難い(抗いがたい不可思議な)」ことに対しては畏怖と感謝をこめて手を合わせるのが、自然と共に生きる人々の知恵であり、作法なのだ。*写真は早春の円山川(豊岡付近)の風景。

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2009年6月17日 (水)

アルヴォ・ペルトのティンティナブリ様式

満天の星も漆黒の闇も、私たち都会人には今や縁遠いものになった。45年もまえ三方五湖の湖畔の宿に泊まったとき、湖面に広がる濃密な闇にほとんど畏怖に近いものを感じたことがあった。以来、あれほど深い闇を経験したことはない。闇の深さを知っていた昔の人たちは、また満天の星降る夜の壮麗さも知っていたことだろう。夜の静寂(しじま)に天空を渡ってゆく星々の輝きを見て、人々は無数の<星の鈴>が奏でる厳かな宇宙の音楽(harmonia mundi)を聞き取った。エストニアの作曲家アルヴォ・ペルトのティンティナブリ(鈴ふり)様式の音楽を聴いていると、星々が鈴の音を響かせながら夜空を渡ってゆくのが<見える>ようだ。ペルトの「タブラ・ラーサ」(文字の書かれていない白紙の意)は、「静寂を聴くこと」が音楽のもっとも大切な要素であることを教えてくれた。

ギドン・クレーメルとクレメラータ・バルティカのアルバム『シレンシオ(沈黙)』には、ペルトの「タブラ・ラーサ」と「ダルフ・イッヒ(Darf ich)?」が含まれている。「ダルフ・イッヒ?」とはドイツ語で「いいですか?」という問いかけである。誰に対する問いかけなのだろう。それは音楽から聴き取るほかない。ペルトの幼な児のような<含羞(はにかみ)>の表情が浮かんでくる。

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2009年6月16日 (火)

大阪城に対座してカツカレーを食す

毎週火曜日はインターフェロン注射を受けるために天満橋の大手前病院に行く。今日も出かけた。採血の結果が出るまで2時間ばかり待ちがある。主治医は「昼食でも取っていてください」と言うが、ひどい食欲不振のこのごろは待合室でぼんやり過ごすことが多い。しかし、今日はアランの『四季をめぐる51のプロポ』(プロポとは話題のこと)を読んでいて、心と体に何か霊気めいたものが行き渡ったようで、ふと病院12階の展望レストランにでも行ってみるかという気になった。展望レストランとはいってもじつは庶民的な病院食堂なのだが、広々としたその窓からはなんと大阪城の全体を見渡すことができる。大阪城を見るのに、これほどのポイントはまたとないだろう。今日は大阪城と対座して<気合を入れて>カツカレーを食した。(やや気合不足だった。)アランを口ずさみつつというわけでもないが、例えば

「ちょっと瞬(またた)きしただけで、あるいは歩調を変えただけで思想が鳥のように飛び立つこともしばしばある。人はこのような心の突然の動きを精神と読んでいる。(・・・)この世はメタファーを投げかけている。ツバメの飛翔は、いかなる神のお告げなのか。電線に止まったその身体つきはまるで変な音楽(4分音符)だ!(・・・)神々は何の予告もなく現われすぐに消えてゆく。神々はみな季節の変わり目に現われる。しかし神々はもうそこにはいない。すなわち、そこにはもう『想い』はない。」

という章句など、安らぎと励ましに満ちている。

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2009年6月15日 (月)

くちなし

初夏の明るい日ざしを受けて、くちなしの花があっけらかんと咲いている。リルケの口真似をすれば、「くちなしが陽ざしに向かって『私は白い』と叫んでいた」。くちなしの花には、<けれんみ>もなければ<つつましやかな羞恥(はにかみ)>もない。つまり、奥行きがないのである。この印象は、いったいどこから来るのだろう。おそらく厚ぼったい花弁が白すぎるのだ。そして、その白さを際立たせている濃い緑の葉叢(はむら)にも陰影の射す余地がない。くちなしは気だるくも甘い芳香を放ちながら、たちまちのうちに黄いろく褪色してゆくのである。

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「くせに」考

「知ってるくせに」とか「あんなに約束したくせに」のような「・・・くせに」というせりふは、どこか艶(つや)めいて人肌臭がする。仏頂面をしてすねてみせるが、ちょっと未練心ものぞかせる。女性の口からなら許せるが、男の口からあまり聞きたくないせりふだ。(ジェンダー論の論客から叱られそうですが・・・。)

一方、「いい人なのに」とか「今日は来るはずなのに」のような「のに」という言い回しとなると、これはどこか醒(さめ)て突き放した感じになる。

この違いはどこから来るのか。「くせに」の「くせ(癖)」が「くせもの」のような気がする。私が日ごろ座右に置く『岩波古語辞典』によれば、「くせ」とは、

<ひとにいやがられるような、異様な臭いを持つ意のクサ(臭)の変化形であろう。>そして、語義として「くさみ。ゆがみ」の他に、「特に際立って強い、よくない性癖」が挙げられて、『沙石抄』から「人ごとに、心中にも、身の業にも、愛し好みて捨てがたく忘れがたき事あり。これを癖という」という用例が引かれている。これでわかった。「くせ」はもともと、臭み、ゆがみ、嫌み、苦みなのだが、ところがどっこい、人間関係(特に男女の仲)ではそれが何より「愛し好みて捨てがたく忘れがたき事」となる不思議。「あばたもえくぼ」だったものが、「くせに」と言い出すようになると「えくぼもあばた」に化して、難「癖」をつけたくなってしまうのである。

「くせに」と「のに」の間でバランスを取るしかない。

岩波古語辞典

エン・エル・ムンド

映画では<踊るシーン>がいちばん好きである。芸能としての舞踊、芸術としてのバレー、肉体の極限的な躍動を示すモダン・ダンスよりも、普通の人が普通に踊る場面のことである。スペインの映画監督ヴィクトル・エリセの『エル・スール(南へ)』は、父との心の通いと別離(父の死)を通して「南へ」、つまり世界へと旅立ってゆく少女エストレーリアの物語である。スペイン内戦の暗い過去が、父と母と娘の家族に、互いへの<静かないたわり>を強いている。この北の「カモメの家」の静寂の中で、風見のカモメだけかたかたと冷たく鳴っている。エストレーリアの初聖体拝受の日、南から祖母と父の乳母がやってくる。神の花嫁の衣裳を着た少女は、父が撃つらしい猟銃の音に表情をこわばらせる。父は教会に背を向けてきたのだ。聖体拝受を受けたエストレーリアは席に戻ろうとして、会堂の奥の闇にたたずんで自分の方をじっと見つめる父の姿に気づく。その夕べ催された祝宴で、父と娘は弾けるように「エン・エル・ムンド」を踊るのである。父と娘の心の通いをこんなにも美しくこんなにもしみじみと描いた作品を私は知らない。

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マルベリー・ソース

黒く色づいたマルベリー(山桑)の実に砂糖を加えて煮立たせると、透明で照りのある濃い茜色のソースができる。レモンとキルシュヴァッサー(リキュール)を加えると、マルベリー・ソースのでき上がりだ。野趣のある香りを言葉や写真で伝えられないのが残念だ。せいぜい50センチばかりの鉢植えだが、私には「秘密の果樹園」だ。

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2009年6月12日 (金)

『夜明け前』 第1部

初夏、木曽路は新緑でむせ返っていることだろう。木曽福島、妻籠、馬籠と木曾路の宿駅をこれまで何度も訪ねてきたが、それはひとえにそこが藤村『夜明け前』の舞台だからだ。馬籠峠に立つと、南前方の左手に恵那山のおおらかな稜線が見える。

馬籠本陣を継ぐ青山半蔵の嫁として妻籠宿から嫁(か)してきたばかりのお民に姑のおまんはこんなふうに語りかける。「お民、来てごらん。今日は恵那山がよく見えますよ。妻籠の方はどうかねぇ。木曽川の音が聞こえるかぇ。(・・・)ここでは河の音は聞えない。そのかわり、恵那山の方で鳴る風の音が手に取るように聞こえますよ。」この言葉が、古代から変わることなく自然に育まれ自然とひとつになった木曽谷の人々の生活と心情をつつましく、しかし晴れやかに語りつくしている。

一方、制度と組織の硬直によって荒廃おおうべくもない幕藩体制は、浦賀沖への黒船出現によってその根太(ねだ)をはげしく揺すぶられ、開国と攘夷の間で国論が二分される危機を迎えていた。生来学問好きで夙(つと)に国学を学んだ半蔵は、国事への熱い志を抱きつつも実直な宿役人として務めに縛られ、鬱屈した思いを重ねている。時代の荒々しい奔流は、諸大名・幕府重役の頻繁な往来、皇女和宮の降嫁、水戸天狗党の残党の通過などの形で、木曾宿の人々の生活を弄(もてあそ)び苛(さいな)める。大政奉還がなり、「ええじゃないか」の狂乱が各地に広がって行く。半蔵は愛弟子の勝重に向かって、「ようやく。ようやく」と言って、「串魚に豆腐の汁、塩烏賊(しおいか)のおろしあえ、それに亭主の自慢な蕪(かぶ)と大根の切漬けぐらいで、友人とともに山家(やまが)の酒を酌(く)み交わ」すのである。そのとき、半蔵の胸に浮かんだ「一切は神の心であろうでござる」という篤胤(あつたね)の『静(しず)の岩屋』の言葉で『夜明け前 第1部』は結ばれる。 

夜明け前 第1部(上) (岩波文庫)

『夜明け前』 第2部

明治新政府の政策は半蔵の夢をことごとく裏切るものであった。馬籠宿の宿役人の職を解かれた半蔵は、次第に正気と健康を失っていった。

「妙なものだなあ。俺なんぞはおまえ、明日(あした)を待つような量見じゃ駄目だというところから出発した。明日は、明日はと言って見たところで、そんな明日はいつまで待っても来やしない。(・・・)過去こそ真(まこと)だーーそれがおまえ、篤胤先生が俺に教えてくださったことさ。だんだんこの世の旅をして、いろいろな目に逢ううちに、いつの間にか俺も遠くへ来てしまったような気がするね。こうして子供のことなぞよく思い出すところを見ると、やっぱり俺という馬鹿な人間は明日を待っていると見える。」

そう言ってあれほど好きだった酒を断つと言い出したとき、お民は素直に喜んだものだった。明治17年6月のことだった。その年の二百十日も近い夜、「月も上がった。虫の声は暗い谷に満ちていた。かく万(よろず)の物がしみとおるような力で彼の内部にまで入って来るのに、彼は54年の生涯をかけても、何一つ本当に摑むこともできないそのおのれの愚かさ拙(つたな)さを思って、明るい月の前にしばらくしょんぼりと立ち尽くした。」「青い蕗(ふき)の葉を頭にかぶった」半蔵が、誼(よ)しみの深い万福寺の本堂に火を放って村人に拘束されたのは、その夜のことだった。そして、座敷牢に幽閉される身となった。

愛弟子の勝重が座敷牢にお師匠さまを見舞った。「勝重が半蔵の見ている前で、腰につけて来た瓢箪の栓を抜いて、小さな木盃(もくはい)に酒をつごうとした時、半蔵はじっと耳を澄ましながら細い口から流れ出る酒の音をきいていた。そして、コッ、コッ、コッ、コッというその音を聞いただけでも口中につばを感ずるかのような喜び方だ」った。勝重が座敷牢を立ち去りかねて、別室にしばし時を過ごしていると、思わず師匠のひとり言を聞いてしまう。「勝重さんはどうした。勝重さんはいないか。いや、もういない・・・・・こんなところに俺を置き去りにして、落合の方に帰っていった。師匠の気も知らないで、体裁の好いことばかり言って、あの男も化物かも知れんぞ。」その声を聞いて、勝重は裏の竹薮の方に出て、ひとりで激しく泣いたのだった。

瓢箪から注がれる酒の「コッ、コッ、コッ、コッというその音」の哀切。藤村は、そこに半蔵と時代の悲劇を凝縮して見せたのである

夜明け前 第1部(下) (岩波文庫)

2009年6月11日 (木)

白い花が咲いてた

北緑丘団地の千里川ぞいに、6月のこの季節、今年もまた白い花が咲いた。近隣ではここでしか見かけない、この花は何の花でしょう。どなたか知りませんか。

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マリリンがお好き

1960年の安保闘争とその挫折は、日本現代史の大きな曲がり角だった。憲法学者の黒田了一氏(のちの大阪府知事)がわが高校にまでアジ演説に来られた。高校1年の私もデモに参加した。政治の熱砂が吹き荒れていた。そして、挫折。

マリリン・モンローが『荒馬と女』を遺作としてNYのアパートで変死したのは62年のことである。事故死とも自殺とも他殺とも言われる。一つの時代の終わりを象徴するできごとであった。「マリリン・モンロー・ノーリターン」という野坂昭如の熱唱があるが、政治の高熱にまだ浮かされていた若者には、「マリリン・モンロー・ノータリーン」と聞こえた。

そんなモンロー像を一変させてくれたのはイギリスの監督ニコラス・ローグの『マリリンとアインシュタイン』(1985)だった。NY地下鉄の送風口の風でスカートがまくれ上がるシーン(『7年目の浮気』)を撮り終えたマリリンは、その夜、近くのホテルに泊まっていたアインシュタインを突然訪ねて行く。そして、一般相対性理論の完成に余念のないアインシュタインに向かって、直前にコンビニで買った懐中電灯やら風船やら列車模型やらを動かしながら、マリリンは一心不乱に相対性理論を説明をしてみせる。「まだ特殊相対論だけだけど」と、一途さとはにかみが混じった笑みを浮かべながら。20世紀のシンデレラと王子が出会う特上のメルヒェン。マリリンを演じるテレサ・ラッセルは、ほとんど<入神>の演技であった。

さて、まくれ上がったスカートの下に見えたものは?通風口の鉄格子の下で巨大扇風機を動かしている作業員が「何が見えた?」と隣の作業員に訊く。訊かれた男は目を潤ませて放心したように、「神の顔が見えた」とつぶやく。まことに、可憐と無垢、そして無私の悲しみの表層をまくり上げてみれば、またしても可憐と無垢と無私の悲しみのモンローが出てくる。スカートをどこまでまくってもみても、出てくるのは<深層>ではなくて<表層>なのだ。しかし、その<表層>に神の顔が映じていることは、見る者が見ればわかる。

七年目の浮気 (特別編) [DVD]

2009年6月 8日 (月)

老パルチザンを送る

敬愛していた叔父が先日86歳で亡くなった。54歳で肺ガンの手術を受けてから、次々と大病に見舞われたが、見事天寿をまっとうした。戦後、復員してすぐに共産党に入党し、山村工作隊として地下活動にも加わった。しばらくわが家に(つまり姉である私たちの母のもとに)身を寄せていた。私が小学生のころのことである。警察予備隊(自衛隊)の駐屯地の前でアジ演説をしビラを撒いたので、尾行がついているなどと言っていた。叔父はコミュニストだったが、イデオロギーの人ではまるでなかったと思う。根っからの楽天家、心優しい無類の人間好きであった。叔父のまわりには、いつも笑いが絶えなかった。誰からも愛された。

弔辞を述べた老人は何度も何度も繰り返し叔父の名を呼んだ。振りかえらず遠ざかってゆく叔父の背を追って、そのかたわらに立とうとしているかのように。そのときはじめて、<弔(とぶら)う>とは<訪(とぶら)う>こと、その人の<名を呼ぶ>ことだと思った。

N市市民合唱団での活動が長かった。合唱団の老いた仲間たちが白髪頭を昂然と上げ、「雄々(おお)しきますらお」のためにロシア民謡『ともしび』を歌った。パルチザンの歌である。

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2009年6月 7日 (日)

内山龍雄先生のこと

理学部の内山龍雄(りょうゆう)先生が突然、私が助手を務めていたドイツ文学研究室に来られて、まことに辞を低くして、ドイツ語の文法に関する教授を乞われたとき、初対面でもあり、先生のことについて私は何も知らなかった。身長180センチ、体重80~90キロはあろうかという巨躯に圧倒された。「浜松高等学校以来、ドイツ語から離れておりましてね。いま、翻訳で苦労しております」ということだった。なかなかどうしてそのドイツ語力には侮りがたいものがあることは、質問の的確さですぐにわかった。「一を聞いて十を知る」理解の速さと正確さには驚嘆すべきものがあった。以来なんども直接足を運ばれたり、電話をしてこられたりで、ずいぶん親しくお付き合いさせていただいた。豪放磊落、稚気に富むとは先生のような人を言うのであろう。いつも老眼鏡を紐で首から下げておられた。忘れてはいけない予定など、大事なことは手のひらにペンで書き込んでおられた。「今日は裏のフェンスを乗り越えて大学に入って来ましたよ」と言っておられたこともあった。あるとき「今日はいいところへ行きましょう」と、ご自分の運転する車で箕面の「ミスタードーナッツ」に連れて行ってくださった。当時(1970年ごろ)、箕面店は「ミスタードーナッツ」の日本での開業第1号店だったはずだ。その頃には、先生が卓越した理論物理学者であることを知っていたが、車の中で「ちょっとした手違いで自説の発表が遅れてノーベル賞を逃しました」と笑っておっしゃったときには、<私のために>先生にノーベル賞を取ってほしかったと心底思ったものである。それくらい、私は先生のことが好きになっていた。

銀の滴降る降るまわりに

「銀の滴(しずく)降る降るまわりに 金の滴降る降るまわりに」と歌いながら、梟(ふくろう)の神(kamui)が人間の村(ainukotan)の上を通ってゆく。知里幸恵編訳『アイヌ神謡集』の冒頭である。

<Shirokanipe ranran pishkan, konkanipe ranran pishkan>

というのが、アイヌ語原音のローマ字標記である。私は声に出して読んでみる。何と不思議な美しい響きだろう。20歳で亡くなった知里幸恵が、己が命を代償に私たちに残してくれたこの<ユーカラ(歌謡)>が、彼女自身の声で歌われるのを聞きたかったと思うのは私だけではあるまい。しかし、私に正しい発音はできなくとも、一度全部を通して原音を声に出して読んでみたい。

梟の神は、貧しいが実直な家族の家に招じ入れられる。「私は私の体の耳と耳の間に座っていましたが、ちょうど真夜中時分に起き上がりました。私が羽ばたきをすると、私のまわりに美しい宝物、神の宝物が美しい音を立てて落ち散りました。」

「私は私の体の耳と耳の間に座っていた」とは摩訶不思議な表現だが、註記によれば、鳥や獣(の神)は人間の間に出てくるときはそれぞれに鳥や獣の姿をした冑(かぶと)を身に纏っている。鳥や獣の(神としての) 本体は人間の目には見えないが、耳と耳の間にいるとされているそうだ。

アイヌ神謡集 (岩波文庫)

2009年6月 4日 (木)

ライラックの咲くころ

6月はライラックの季節である。トルストイ『復活』のなかで、主人公の貴族ネフリュードフが下女のカチューシャを誘惑する夜(朝まだきだったかもしれない)、庭園にライラックのむせ返るような匂いが立ち込めている。すべてのあやまちは、ライラックの匂いのせいではなかったか、ライラックの花を見るとそんなことを思う。

ある殺人事件の審理に陪審員として出席したネフリュードフが目にしたのは、裁かれるカチューシャの姿だった。誤審に基く裁判にネフリュードフは抗うすべもなかった。判決の日、法廷入り口の敷居から裁判長席までの歩数をしきりに気にする裁判長の姿をトルストイはさりげなく描き込んでいる。彼は縁起かつぎなのだ。まるで田舎芝居にしかすぎない裁判の無慚(むざん)さ。ライラックの記憶とひとつになって、忘れがたい場面である。

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ウソ発見器

大学の同級生M君は、大阪府警科学捜査研究所長を辞してから、今は大学で教鞭をとっている。科学捜査、とりわけウソ発見器の専門家である。先日何気なくテレビの深夜番組を見ていたら、M君の穏やかな、いささかとぼけた顔が映っていて懐かしかった。ウソ発見器の仕組みやら、使い方やら、それで多くのホシ(犯人)を挙げた経験を笑顔でぼそりぼそりと語っていた。彼の話を聞きながら、ウソを発見するのは、器械ではなく器械を使いこなす人間(捜査官)であることを、当然のこととは言え、改めて確認した。M君と向きあっていたら、おおよそウソなどつけないのだ。M君の人柄の温かさが、心にじかに触れてきて胸のうちが温かくなる。そんなM君にどうしてウソがつけるものか。M君が語っていたウソ発見器の優れた効用は、半分は<ウソ>である。M君、許せ!

2009年6月 3日 (水)

ムギワラトンボ

6月の風が吹く朝、近くの羽鷹池の畔りで<ムギワラトンボ>が群れ飛んでいるのを見た。<ムギワラトンボ>に出会うなんて、何年ぶりのことだろう。戻ってきたのは、里山・里池の自然なのだろうか。それとも私自身の自然へのまなざしなのだろうか。虫取り網を振り回していた小学生のころ、<ムギワラトンボ>と<シオカラトンボ>は将棋の金・銀みたいなもの。飛車・角は、もちろん<ギンヤンマ>と<オニヤンマ>だった。まずは<シオカラトンボ>と再会する日が楽しみだ。飛んでいるトンボを写すのは、至難の技。画像はインターネットからお借りした。

ちなみに、ドイツ語ではトンボのことを"Libelle(リベレ)"と言うがラテン語の"libella"(水準)から来ている。水平に滑空するその姿はまことに優美である。"Wasserjungfrau(ヴァッサー・ユングフラウ)"という呼称も辞書には挙がっている。これは「水辺の乙女」の意で、妖精譚に出てきそうでワクワクさせられるが、実際には文章で見たことも日常の会話で耳にしたこともない。

Images

2009年6月 2日 (火)

マルベリー

クリスティナ・ロセッティのバラッド『お化け商人』の中で、果物商人に化けた小鬼がおいしそうな果物の名を次から次へと繰り出して、賢いリヂィとくいしんぼローラの姉妹を誘惑しようとする。(『お化け商人』は阪大英文のY.K.さんの修論で教えられました。Y.K.さん、ありがとう。)

「メロンに木苺 いかがです / 桃の頬っぺは下ぶくれ / 黒い頭の 桑の実や / ひとりで生えた つるこけもも / すぐり葡萄に グーズベリー / つややか真っ赤なバーベリ」

もっともっと続く。ロセッティは植物の宇宙に魅せられて、いつしか植物の迷宮を夢見るようにさまよっている。「黒い頭の桑の実」はマルベりー、山桑の実のこと。

わが家のヴェランダで今年もマルベリーが黒く色づき始めた。人差し指の先くらいの実が緑から赤、赤から黒へと色を濃くしてゆく。落ちる前に黒い実を摘んでビニール袋に入て冷蔵庫で保存する。一定の量が収穫できると、砂糖で煮てマルベリージャムを作る。独特の香りがあって、ヨーグルトソースに最適。いまは40粒くらい貯まった。100粒くらいになったらジャム作りだ。できるのはグラスの底3分の1くらい。大した手間だが、喜びはその何倍も大きい。

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2009年6月 1日 (月)

函館の青柳町こそ悲しけれ 

田の畦道でヤグルマギクが風に揺れている。丈高い茎の尖端に風車のように咲く花。その青は伸ばした手をすっと引っ込めたくなるほどに可憐で透明でほとんど神秘的でさえある、初恋のように。青い花のそばにピンクの花が寄りそって咲いているとき、青い花を妬ましく思う。

 函館の青柳町こそ悲しけれ 友の恋歌 矢車の花 (啄木)

啄木の歌にはいつも、無垢と悲しい嘘とが区別しがたくひとつになっている。しかし、この歌については「悲しい青」が限りなく純粋な響きを立てている。

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マルチェロ・マストロヤンニ

マルチェロ・マストロヤンニの人生を、本人のインタヴューや近くにいた人々のさまざまな証言、彼の主演映画のシーンをつないで描いた『甘い追憶』は、このイタリアの稀代の名優の秘密を語って興味尽きないものがある。マストロヤンニの声はビロードのようにつややかで深く、いつも倍音を響かせる。彼はちょっと猫背の広い背中で、どんな台詞よりも雄弁に愛も喜びも失意も悲しみも 語ってみせる。彼はまるで<ブラック・ホール>のようにすべてを飲み込んでから、彼にしかできない<はにかんだ笑顔>を浮かべるのである。

彼が電話魔だったことはすべての人が証言している。撮影現場でワン・シーンの撮影が終わるとすぐにどこかに姿を消してしまうが、電話を掛けているのである。電話で他愛のない<ウソ>と<ホラ>を並べ立てて笑っていたそうな。愛すべき人かな。

マルチェロ・マストロヤンニ 甘い追憶 [DVD]

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