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2009年6月12日 (金)

『夜明け前』 第2部

明治新政府の政策は半蔵の夢をことごとく裏切るものであった。馬籠宿の宿役人の職を解かれた半蔵は、次第に正気と健康を失っていった。

「妙なものだなあ。俺なんぞはおまえ、明日(あした)を待つような量見じゃ駄目だというところから出発した。明日は、明日はと言って見たところで、そんな明日はいつまで待っても来やしない。(・・・)過去こそ真(まこと)だーーそれがおまえ、篤胤先生が俺に教えてくださったことさ。だんだんこの世の旅をして、いろいろな目に逢ううちに、いつの間にか俺も遠くへ来てしまったような気がするね。こうして子供のことなぞよく思い出すところを見ると、やっぱり俺という馬鹿な人間は明日を待っていると見える。」

そう言ってあれほど好きだった酒を断つと言い出したとき、お民は素直に喜んだものだった。明治17年6月のことだった。その年の二百十日も近い夜、「月も上がった。虫の声は暗い谷に満ちていた。かく万(よろず)の物がしみとおるような力で彼の内部にまで入って来るのに、彼は54年の生涯をかけても、何一つ本当に摑むこともできないそのおのれの愚かさ拙(つたな)さを思って、明るい月の前にしばらくしょんぼりと立ち尽くした。」「青い蕗(ふき)の葉を頭にかぶった」半蔵が、誼(よ)しみの深い万福寺の本堂に火を放って村人に拘束されたのは、その夜のことだった。そして、座敷牢に幽閉される身となった。

愛弟子の勝重が座敷牢にお師匠さまを見舞った。「勝重が半蔵の見ている前で、腰につけて来た瓢箪の栓を抜いて、小さな木盃(もくはい)に酒をつごうとした時、半蔵はじっと耳を澄ましながら細い口から流れ出る酒の音をきいていた。そして、コッ、コッ、コッ、コッというその音を聞いただけでも口中につばを感ずるかのような喜び方だ」った。勝重が座敷牢を立ち去りかねて、別室にしばし時を過ごしていると、思わず師匠のひとり言を聞いてしまう。「勝重さんはどうした。勝重さんはいないか。いや、もういない・・・・・こんなところに俺を置き去りにして、落合の方に帰っていった。師匠の気も知らないで、体裁の好いことばかり言って、あの男も化物かも知れんぞ。」その声を聞いて、勝重は裏の竹薮の方に出て、ひとりで激しく泣いたのだった。

瓢箪から注がれる酒の「コッ、コッ、コッ、コッというその音」の哀切。藤村は、そこに半蔵と時代の悲劇を凝縮して見せたのである

夜明け前 第1部(下) (岩波文庫)

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