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2009年5月

2009年5月30日 (土)

今日の午後久しぶりにはげしい驟雨が通り過ぎると、西の空に午後の遅い日ざしが広がった。すると、まだ薄闇を残した東の空に虹が立った。わが家のヴェランダから早速カメラを向けた。

  虹立ちて忽(たちま)ち君のあるごとし(虚子)

 虹消えて忽ち君のなきごとし(虚子)

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信楽の赤

信楽の赤は、<土>と<炎>と<陶工の気>との絶妙の出会いから生まれる。赤という色を、私は攻撃的な色彩として長らく忌避してきた。向き合っていると疲れてくる感じがした。十年くらい前、信楽の源衛門窯で出会った赤の美しさに魅せられた。かぎりなく温かく、かぎりなくやさしい赤だった。そのとき買った湯飲みは、いまも私がもっとも大切にしている陶器のひとつである。夕映えの中に立つ苔むした桜の古木のようで、白い<石はぜ>がさかんな落花を思わせる。土の精霊が立ち現れるのを、目の当たりにするかのようだ。

下は、澤正二のぐい呑み。台風一過の夕焼け空のような荒々しさと静けさ。

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2009年5月29日 (金)

渡る

最近では「渡り」というと、官僚の天下りのことをいう。彼らは「世渡り上手」なのだ。「渡り鳥」「渡し舟」などの美しい言葉が、退職官僚に食いものにされてはかなわない。直径のことを「差し渡し」というように、「渡る」とはそもそも最短距離を移動することを言ったらしい。「橋を渡す」というのも、そのためである。寅さんは「渡世人」、のらくらとぶらぶらと生きているように見えて、心情においてはつねに最短距離をひたむきに駆け抜けているのである。

 「人言(ひとごと)を繁(しげ)み 言痛(こちた)み 己が世に 未だ渡らぬ朝川渡る」 (万葉集 但馬皇女(たじまのひめみこ)の歌)

(世間の口の端がうるさくて苦しいので 生まれてこのかた一度も渡ったことのない 朝の川を渡ることだよ) 高市皇子(たけちのみこ)の宮にありながら穂積皇子への熱い思いを断ち切れず、但馬皇女はまだ朝靄の立ち込める飛鳥川を裳裾を濡らしながら渡った。内に秘めた決意とひたむき。人生の「橋を渡る」とはそういうことだ。

茗荷(みょうが)

茗荷の梅酢づけ、生姜のはじかみ、柚子味噌がいちばん好きな子なんていうのは、やせっぽちで、内気なくせに、小生意気、要するに虚弱なわがままっ子と相場が知れている。母親は好き嫌いのひどい子にさんざん手を焼いたことだろう。茗荷なんか子どもが食べるものじゃない、もの忘れがひどくなるといつも愚痴っていた。しかし、取り立てて「もの忘れ」がひどくなったとも思わない。きっと茗荷は大人の食べものとしておきたかったのだ。

去年スーパーで茗荷の根茎を買い、ヴェランダで鉢植えにした。60~70センチに育った茎が末枯れ始めたころ、鉢土にひょっこり顔を出している茗荷に気がついた。 それからひと月、自家産の茗荷を堪能した。今年も茗荷の茎が勢いよく伸びてきた。

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2009年5月28日 (木)

ジョーはどこへいった

豊中市北部の桜井谷地区はため池(里池)の多いところである。いま私の住む少路にも羽鷹池、梨谷池、むかし通った小学校の通学路にも赤坂池、二尾池、乳母谷池があった。下校時に赤坂池の岸に立つと、池の奥まったところ、水草の蔭に水鳥の姿が見える。子供たちはその水鳥をジョーと呼び、「ジョーの頭に火がついた」と囃(はや)して石を投げた。するとジョーは律儀にぴょこんと頭を水にくぐらせた。ジョーの体部は黒、頭部だけが火のように赤かった。ジョーの姿を見かけなくなって、どれくらいになるだろう。里池が次々と埋め立てられ瀟洒な住宅地に生まれ変わった。ジョーはどこへ行ったのだろう。ジョーが本当は「ばん」という水鳥だったことを知ったのは、最近になってのことである。下に掲げた画像は、インターネットから拝借した。こんなに近寄って見たことはなかった。

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シテール島への船出

長身・痩躯・白髯の老人がウクライナ号のデッキからヴァイオリンのケースを脇に抱えて長い鉄梯子をゆっくりと下りてくる。雨にぬれた埠頭に立った彼は、出迎えた息子と娘に向かって「エゴ・イメ(わたしだよ)」と呼びかけた。32年ぶりのギリシアへの帰郷。若き日スピロはパルチザンの闘士として軍事政権から死刑判決を受け、ロシアに逃れた。そのために若妻カテリーナが身代わりとして服役した。<私が私でありうる>ために戦ったことへの自負と、そのために妻子を打ち捨てたことへの拭いがたい負い目が、「エゴ・イメ」に込められていた。しかし、、解放されたはずの祖国ギリシアはスピロの「私(エゴ)」を拒む。ただ妻のカテリーナと、パルチザンでともに戦った友パナヨティスだけが、スピロの「私」を抱きしめてくれる。家の玄関前で待つカテリーナはおずおずと近づいてくるスピロに、ひとこと「ごはん 食べた?」と訊く。

山上の墓地をめぐりながら、「ヘーイ ヨルゴ、ヘーイ レニ、ヘーイ ディミトリ」と戦友たちひとりひとりの墓碑に向かって声をかける。パナヨティスが口ずさむ「赤いりんごが40個 いとしいお前 ハンカチに包まれて」の歌に誘われて、スピロは舞う。両腕を翼のように高くかかげ、山頂を荒鷲のように旋回する。バックに広がるギリシアの空の広さ。

村人とのトラブルで国外退去命令を受けたスピロは、船便を待って吹き降りの沖合のブイに留め置かれる。カテリーナはスピロと離れることを拒み、夜明けのブイに乗り込む。シテール島は、ギリシア神話の至福の島である。アンゲロプロス監督(ギリシア)の映画。

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2009年5月27日 (水)

人は生きて別るる

大学2年の夏、友人と信州を旅した。夜、大阪を出て岐阜駅の待合室で仮眠。翌朝、高山から乗鞍を越えて上高地の徳沢ロッジで一泊。早朝、ロッジの外に出ると、靄(もや)の立ち込めた白樺林ごしにバラ色に染まった北アルプスの山なみがまじかに見えた。心が震えた。その日は、聖(ひじり)高原の湖畔のホテルに泊まった。夕食後、友人と恋愛論を戦わせた。愛は、対象への価値判断に基づいているのか否か。今から考えると、空疎な「言葉遊び」にすぎない。しかし、そのときは真剣で議論は深更に及んだ。互いに一歩も譲らなかった。言葉が途切れがちになり、ついに沈黙が訪れた。翌朝、友人は北へ、私は南へ向かって旅立った。その友人とはそれっきりになった。「決然と別れてうしろを振りかえらぬ」ことに、若さの倨傲(きょごう)と矜持があった。

「やがて死が堰(せ)き隔てむに忘失の刻(とき)あり 人は生きて別るる」(稲葉京子)

「生きて別るる」が、ひとの定めである。その決断に賭けることで、人は人生の階段を上ってゆく。とはいえ、この年になると「忘失」したはずのひとびとの姿が、また近づいてくる。穏やかな表情で。

2009年5月26日 (火)

菜の花や 月は東に日は西に

あまりにもよく知られた蕪村さんの句である。この句を読むと、学齢に達する以前の記憶として、春のとある情景を想い出す。6歳年上の従姉(いとこ)と2歳年下の弟と3人で、近くの小川で<めだかとり>をしていた。裸足を冷たい水につけると、清冽な感覚が身体を駆け上る。笑顔と歓声がはじける。そして、時のたつのを忘れてしまう。ふくらはぎにヒルが吸いついているのに気がついて、驚きと恐れで互いの顔を見合わせたときには、あたり一面の菜の花畑が夕映えに赤く染まっていた。川から上がると、すばやくたそがれてゆく家路を追いかけられるように走ったものだった。確かに「日は西に」あったが、はたして「月は東に」あったか、今となっては確認のしようもない。ただ蕪村さんのこの句を読むと、あの日の情景がまざまざと、くっきりと眼前に浮かんでくる。豊中駅の西側、吉野通(今はその地名もない)に住んでいた頃のことである。

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天満橋のヘルメス

毎週一度天満橋の病院でインターフェロン注射を受けている。副作用がきつく、屠場(とば)に曳かれゆく家畜のように病院への足取りは重い。ところが、地下鉄を降りて、階段をよたよた上って、OMMビル前の広場に立つと、何と<天満(天馬)空を行く>ヘルメス像が出迎えてくれる。ヘルメスはギリシア神話の伝令の神であって、両足の踵(かかと)に翼が生えている。「よっしゃ」と思うか、「まいったな」と思うかは、私の気合一つにかかっているのだ。(こういうのを「曳かれ者の小唄」というのかしらん。)

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2009年5月25日 (月)

ミケランジェリ

ミケランジェリが弾くラヴェル・ピアノ協奏曲第2楽章のいつ果てるともないトレモロを聴いていると、私は<無窮>を体験しているような気がする。桜の白い花びらが数かぎりなく蒼い淵に降りそそぐ。否(いな)むように、戯れるように。一片一片(ひとひらひとひら)が微光を放ちながら<蒼>の中に吸い込まれてゆく。

木の葉が散る、遠いところからのように / まるで空の遥かな園が枯れてゆくかのように / 否むような身ぶりで落ちてゆく

私たちはみな 落ちる この手も落ちる / そしてほかのものたちを見るがいい、落下はすべてにある

しかし この落下を かぎりなくやさしく / 両手に受け止めてくださる<ひとりの方>がおられる  (リルケ『秋』)

ミケランジェリの音楽は、その<ひとりの方>の確かな存在を感じさせてくれる。

ラヴェル:ピアノ協奏曲

アジサイ

アジサイの青い花を見ていると、密生する毬花と葉の陰に何か秘密を隠しているような気がしてくる。子供のころ、露がきらめく大きな葉の上に、真っ青な雨蛙がうずくまっているのを見つけて、目をみはったことがあった。青い雨蛙は、アジサイの秘密の守護者だったのかしらん。今は、青い雨蛙の話をしても子供たちには信じてもらえない。

アジサイの花色は、人の心を映しているかのように、揺れる。

 こころをばなににたとへん / こころはあぢさゐの花 / ももいろに咲く日はあれど / うすむらさきの思い出ばかりはせんなくて。(朔太郎)

アジサイの青が濃くなってきた。

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2009年5月24日 (日)

侯妃よ さらに一条の光を

カンタータ198番「侯妃よ さらに一条の光を」(1727)は、バッハがライプチッヒ・トーマス教会の楽長を勤めていたころ、ザクセン選定侯兼ポーランド国王フリードリッヒ・アウグスト(強健王)の妃クリスティアーネ・エーバーハルディーネの死を悼み、彼女を追悼するために作曲した。当時ライプチッヒ大学にあって学会・文壇の指導者を任じていたゴットシェートが歌詞を担当した。クリスティアーネは夫君フリードリッヒ・アウグスト侯がカトリック国ポーランドの王位を継承するために、プロテスタントの信仰を捨ててカトリックに改宗したとき、王宮を去って帰らず離宮で敬虔な生涯を終えた。ザクセンの人々は妃の死を深く悲しんだ。冒頭の合唱は、薄明のなか揺らめく影として幽明の境を越えてゆく侯妃の姿を写して比類がない。バッハの数あるカンタータの中で、私が第1に推したい屈指の名作である。

Bach: Cantate BWV.198/Cantate BWV.78 (Bach: Trauerode BWV 198; Cantata BWV 78 /Herreweghe)

蕪村さん

芭蕉を「芭蕉さん」とは呼べないが、与謝蕪村は「蕪村さん」と呼びたくなる。蕪村さんは、摂津国東成郡毛馬村(今の大阪市都島区城北公園近く)に生まれた。「毛馬」というと「毛馬の閘門(こうもん)」、小学校の社会見学で出かけたことがある。「毛馬の肛門ってなんじゃ、そりゃ?」と子供心に思った記憶がある。蕪村さんの生地と知ってからは、子供とはいえ、おのが無知を恥じてそんな記憶を人に語ったことはない。

 「花いばら 古郷(ふるさと)の路に似たるかな」

 「愁(うれ)ひつつ 岡にのぼれば 花いばら」

蕪村さんには、花いばらが似合う。友の野辺の送りに連なったとき、「泣きに来て 花に隠るる思ひかな」と詠んだ。その花は、花いばらだったに違いない。

花いばらがマンション脇の池畔でいま、水面になだれ落ちるように咲き乱れている。

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2009年5月23日 (土)

四十雀

「四十雀」と書いて「しじゅうから」。今日の昼過ぎ、ヴェランダで花の世話をしていると、いつしか、<ツウィピー、ツィツィピー、ツィツィピー>と囀(さえず)りつつけるかわいい声に聞き入っていた。ヴェランダ前のケヤキの茂みに腹部と頭部が黒く、両脇腹から両翼にかけて純白の小鳥の姿が見えた。鳥類図鑑で調べると、四十雀だった。都市近郊でもよく見られる小鳥とか。向こう三軒両隣の可憐な仲間に「ボンジュール!これからもよろしく!」と挨拶せずにいられなかった。四十雀さんのスナップは小さすぎて見えませんね。真ん中の白い点です。

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ユリノキの花

ユリノキの花咲く季節である。ユリノキは20メートルにもなる高木で、梢の高み、びっしりと茂った楓(カエデ)状の葉陰に隠れるようにひっそりと咲く大輪の黄花は、通常人目につかない。色といい姿といいこんなに美しい花が、振り返られることもなく控えめに咲いているのである。千里セルシーの西側、読売文化センターに通じる歩道橋のかたわらにユリノキの花をまじかに見ることができるポイントがある。今年は体調もすぐれないが、この季節ユリノキの花を見にゆかずにはいられなかった。やや花どきを逸していたが、その大柄で可憐な姿に今さらのように惚れ直した。

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たいした問題じゃないが

リンドやミルンというと、高校時代の英語教科書で親しんだ名前。岩波文庫の新刊「イギリス・コラム傑作選」で何十年ぶりかに再会した。

それにしても、イギリス知識人の長い歴史に培われた諧謔の精神はまことに筋金入り。彼らの皮肉・諧謔が人を楽しませにんまりとさせるのは、背後に健康なコモンセンスと他者への温かなまなざしが生きているからである。

ミルンのエッセーから随意に一節を抜き出してみよう。

「運命の女神はわざわざドラマチックなことをしようとはしない、というのが真実である。仮に、諸君や私が生殺与奪の力を手にしたとしたら、人目に立つような派手なことをしようと試みるだろう。例えば、なにげなく塩をこぼした人が次の週に死海で溺死するとか、5月に結婚したカップルが次の5月に同時に死ぬとか。しかし運命の女神は、人間が考え出すような小賢しいことを考え出すような暇はない。仕事を堅実に散文的にこなしてゆくのみであり、通常の確率の法則によって時々あっと驚かせるロマンチックなことをなすのである」

たいした問題じゃないが―イギリス・コラム傑作選 (岩波文庫)

「排除の論理」は願い下げ

新型インフルエンザをめぐるここ一ヶ月ばかりの世の中の動きを見ていると、またぞろ「排除の論理」が臆面もなく大手を振って闊歩している。「神戸・大阪」に出かけた生徒は1週間登校禁止にした自治体があった。「それは少し行きすぎではないか」との兵庫県知事に対して、その自治体首長は「自分のところで何が起こっているのかわかっているのか」と一喝した。「啖呵をきって」みせたのである。そこに見て取れるのは、権柄づくで居丈高な「排除の論理」である。登校禁止の措置は止むを得ないかも知れない。問題は、その言葉使いにほの見える「他者の痛みを思う」ことができない、想像力と思いやりの完全な欠如である。「居丈高な正論・正義」は、じつは「弱さ、うしろめたさ」の醜い厚化粧であることを、今一度確認しておこう。

2009年5月22日 (金)

おだまき

この春、鉢植えのおだまきが咲いた。深紅の花。路傍の野草のように、どこにでも見られる花だが、深紅の花色はめずらしい。たくさんの人に見て欲しかったが、2週間ばかりですべてのつぼみが咲き終えて、散った。

静御前が「しづやしづ  賎(しづ)のおだまき  繰り返し昔を今に  なすよしもがな」と謡いつつ、静の心意を疑う頼朝の前で舞う。おだまきは<糸巻き棹>のこと。「繰り返し」の縁語である。「賎(しづ)のおだまき」は静が自分を卑下しつつ、隠しようのない矜持をもってそう呼んだのである。

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2009年5月21日 (木)

大月みやこ

「河岸(かし)の柳の行きづりに ふと見合わせる 顔と顔」で始まる『十三夜』。持ち前の美声と卓越した歌唱力を与えられた歌手は少なくないが、大月みやこほど自在に<歌を造形>できる技量を持った歌手はいない。40年もまえにその歌声に触れていたはずだが、最近になって彼女と<再会した>。「なつかしいやらうれしやら」である。大月みやこを聞きながら 、私は浮世絵の単純でいて陰影に富んだかぎりなく豊かな描線を見ている 。

大月みやこ 粋をうたう

卵スタンド

薬の副作用で、いま味覚障害に悩んでいる。半年くらい前から、それまであんなに好きだった甘いものが食べられなくなった。朝食にはゆで卵に塩をふって食べる。ドイツにいたころ、ドイツ人がゆで卵をナイフでスパッと切って食べる手際に新鮮な驚きを受けた。それがしてみたかった。そのためには卵スタンドが絶対に必要だ。百貨店で買おうとしたら、今はあまり出ないので「おとりよせ」とのこと。お願いしたら、しばらくして電話で「在庫がございませんので、製造元でお作りいたします。1ト月ほどかかります」とのこと。恐縮しながら2個注文した。安価で、たぶん持ち出しにしかならない商品を作ってくれた。製造元の心意気と気遣いに頭が下がった。

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横目惚れ

さきごろテレビで<横目惚れ(よこめぼれ)>という言葉を耳にした。なかなか味わいのある言葉と思いませんか?<一目惚れ>もいいが、まじまじと見つめることもかなわず、うつむきかげんにしていると、横の方から伝わってくる温かさ。そして、別れ。

蕪村の句に<老いの恋 忘れんとすれば しぐれかな>というのがある。丸谷才一が山頭火を描いた『横しぐれ』という小説もある。四国の巡礼地を辿る山頭火が出会う横なぐりの吹き降り。<横から>不意に吹きつけてくるものは、恋か時雨か。

はなればなれに

無垢で阿呆なチンピラ3人組の天真爛漫なアヴァンチュールを描いて秀逸。カフェで彼らが踊るマディソン・ダンスは忘れがたい印象を残す。オディールが踊りながらときおり口を開いて息をつぐ。そんな<さりげない>仕草が、生きること、愛することのいとおしさと悲しみを語りつくしている。それにしても、オディールを演じるアンナ・カリーナの吸い込まれるような瞳の深さ。1967年のゴダール作品。

ロンサール

わが家のヴェランダではいまロンサールがたくさんの花をつけています。白い大輪のつる薔薇で、花芯に近い部分がやさしいピンクをにじませませています。フランス16世紀の大詩人ロンサールが愛したことからその名がとられたとのこと。挿し木でどんどん増えるので、ヴェランダ花壇に最適です。とはいえ、土に植え、花のトンネルにしたらどんな美しいだろうと思います。

Ronsard

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